ものづくりとことだまの国

縄文・弥生・古墳時代の謎。古神社、遺跡、古地名を辿り忘れられた記憶、隠された暗号を発掘する。脱線も多くご容赦ください

【津堂城山古墳(2)】忘れられた河内の古代勢力のこん跡地名【恵我(えが)】

前回の続き。全国的にも珍しい #水鳥形埴輪 が出土した #津堂城山古墳 考察。#古市古墳群 中の最古級、最大の応神天皇陵に次ぐサイズ。さてどのような人物が埋葬されていたのでしょうか。#消された河内の古代史 #恵我5か村

目次

本文

前回(津堂城山古墳)の続き。

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津堂城山古墳・考

津堂城山古墳 後円部の墳丘

応神天皇陵(誉田御廟山古墳、惠我藻伏崗陵/5世紀初頭=古墳中期)を中核とした世界遺産古市古墳群の最北に位置し、

津堂城山古墳 墳丘から前方部。このラインの先に二上山(大鳥)を眺望

応神天皇陵に先行する4世紀後半築造の津堂城山古墳(リンク先に出土品一覧)は、銅鏡・碧玉多数・円筒埴輪とともに、水鳥形の形象埴輪を出土するという

津堂城山古墳の高まり 西南から

古墳前期と古墳中期の特徴をあわせ持つ、過渡的な、古市古墳群の中でも最古級の前方後円墳です。

ちなみに、同じ「古墳時代」でも、4世紀末までの前期古墳は弥生時代(出雲)勢力、5世紀以降の中期古墳は物部勢力の影響がそれぞれに強い、というのが私の認識です。

藤井寺市HPより

墳丘長が200メートルを超え、古市古墳群の中では応神天皇陵に次ぐサイズクラスであるところから、第19代允恭天皇陵との説もありますが、明治期の宮内庁治定からは外れ(大王級の墳墓が推定される)陵墓参考地の扱いです。

津堂八幡神社(旧 深居神社)

墳丘の高まりを降りて歩いてゆくと、後円部の麓に 津堂八幡神社

津堂八幡神社

当社は、もともと津堂の村に鎮座した深居神社でしたが、大和川の付け替えで湿地帯化した村から新田開発に伴い当地に遷座したとのこと(享保年間)。

津堂八幡神社 案内板より。左図の赤丸が元の鎮座地(旧 深居神社/藤井寺高校の北あたり)右図は現在の藤井寺市津堂

津堂八幡神社 狛犬さん

案内板より)深居神社は、奈良時代養老元年(717)の創建と伝え、品陀別命(応神天皇)を祀られている。この神社は、津堂、大堀、若林、小川、川辺の 恵我五か村 の産土(うぶすな)神社であった。建武の兵乱(南北朝の争乱)により焼失、その後、各村に分祀される。

津堂八幡神社 案内板より

「恵我、えが」地名は古代勢力のこん跡?

案内板の「恵我5か村」が気になり、現在地図に当てはめてみました。

現在の大阪府藤井寺市、八尾市、松原市大阪市平野区をカバーする広大なエリアとなりましたね。

津堂、大堀、若林、小川、川辺の恵我5か村

ざっくりいうと「恵我、えが」は、現在地名よりも広大な古市古墳群エリアの古地名で、

弥生期末〜古墳時代に一帯を支配した古代勢力に関係した地名と考えられます。

例/応神天皇陵=惠我藻伏崗陵、岡ミサンザイ古墳(第14代仲哀天皇陵、宮内庁治定)=恵我長野西陵、など

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忘れられた河内の古代勢力

どのような勢力であったかを考える条件として、彼らの経済基盤、権威基盤を列記してみました。

①大和と河内を繋ぐ交通の要衝を支配

②一帯の広大な稲作エリアの支配

③古市の巨大古墳づくりにも関わった

そして、津堂城山古墳に眠る被葬者は、その古代勢力の長であったと推察することができるのではないでしょうか。

今は忘れられ、記録にも残されていないけれど、弥生末〜古墳時代に河内一帯で権勢を誇った古代勢力とは。。。

長くなりましたので続きます。

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津堂城山古墳 周濠と水鳥形埴輪が置かれていた島条遺構あたり