ものづくりとことだまの国

縄文・弥生・古墳時代の謎。古神社、遺跡、古地名を辿り忘れられた記憶、隠された暗号を発掘する。脱線も多くご容赦ください

物部さん考(0)鷹の止まり木 怨霊のキツツキ伝説

2回目は、地元、大阪夕陽丘四天王寺さん。最後にクイズをひとつ出しています。

春分秋分に夕日が落ちる西門(さいもん)の石の鳥居。夕陽丘の地名はここから起こった。
夕日に西方浄土を観想する「日想観」の中心であり、弘法大師空海さん、親鸞上人、法然上人の足跡も各所に残っている。

多様な宗派を受け入れ「和宗」を標榜するが、昔から七不思議、謎が多い寺とされていた。
そのひとつが、鷹の止まり木。今回はこの「もうひとつの鳥居」について。

写真をご覧ください。伽藍の中心・金堂の破風の下。
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正面が西、入口の建物の向こう側に西門の鳥居があるが、こちらの鳥居は真東を向いている。

没後の聖徳太子が白鷹となり、物部の怨霊(キツツキ)から寺を守護した「止まり木」と呼ばれている。まさに鳥居=鳥が居る場所である。
このあたりの話は「四天王寺の鷹」(谷川健一著、絶版本)に詳しい。
古代の二大勢力、物部氏秦氏が対峙した現場のこん跡である。

私が興味を惹かれるのは、四天王寺を創建した当時の人々の意識が東に向いていたこと。

なぜ東向きなのか?とりあえず位置関係をまとめてみたのが次の写真。
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鷹の止まり木は、境内の東端、太子殿(八角形の夢殿型)の塀に囲まれた奥の物部守屋(もののべのもりや)の祠に向いている。

子どものころは、八角殿はもちろん北壁の建造物や外壁もなく、付近は広々とした遊び場だった。この辺りは鬼ごっこやかくれんぼ、野球に最適だった。
今から考えれば怖ろしい、、、畏れ多い話だが、のんびりした時代で大人たちは叱らなかったし、子供心に怖いとか不気味に感じたことも無い。

私の古代の謎解き趣味は、もちろん、おじさんになってからの話だが、原点はココである。
太子さんと物部さんには、睨み合いの現場で遊ばせてもらったという親しみを一方的に感じている。

前回の出雲-平城京-伊勢ラインの話との共通点は、方位と伽藍(モノ)で表現される結界意識(コト)である。
それが都市や建造物を造り上げる強い動機、原動力になった。宗教とも言い切れない、信仰心とはまた別の、強い目的意識を感じるのである。

四天王寺は古代の上町台地(当時は半島)が伸びる方向に沿って配置されたゆえに、南北に一直線に並ぶ独特の伽藍で、北辰北斗思想も混ざり込んでいる。


四天王寺さんの謎をもうひとつ、紹介しておこう。
写真上、画像が切れているが宝物館がある。その入口階段の下に古墳の石棺の蓋が置いてある。宝物館は私が小学生のころに建てられたが、その前はここも遊び場で、蓋は野ざらしだった。
今は囲いがされ、今ひとつしっくりこない内容ではあるが…、説明板も付いている。
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四天王寺山号は荒陵山(あらはかやま、こうりょうざん)。そして石棺の蓋。
2つの点を繋ぐと、ここには、荒れ果てた古墳があったことが容易に浮かんでくる。
では棺の本体と石室(古墳の中心)はどこか?

是非、四天王寺さんにお参りに寄って探してみてください。難しい人はGoogle地図で。
うまく見つけることができるかも。そこから謎解きの旅が始まります。
ヒント。のんびりあわてず。亀のように
◆写真撮影禁止のところがあります。ルールは守りましょう
◆守屋祠は今は接近するのが難しいので、事前に寺の人に確認して許される範囲で動きましょう


調べた限りでは、荒陵(あらはか)の古墳は物部氏でなかった可能性が高いと思う。
普通に考えれば、長い間、権勢を誇った物部氏が聖地である墓を荒れたままにするはずがない。
また、古代には「荒」を「湿地帯」を意味して使っていた形跡があり、荒れ放題という翻訳が当たらない場合もある。
実際、四天王寺は海辺に近いところに創建された寺であり、その辺りもよく考える必要がある。

いずれ紹介したいと思うが、まだ整理し切れていないので、話だけにしておく。