遺跡めぐりは現地に行くのが一番、と思ったのが写真の立て看板。
井手さんという方が個人で設置されたもの。
たぶん地主さん、案内に出てくる井手信英さんの身内の方であろう。
個人で、と思った大きな理由。
自治体が書ける内容ではない
重要解釈を簡潔に書かれている分、伝えることへの強い想いを感じた。
遺跡でこれほどの内容を拝見したのは始めてだし、これからも出会うことはないと思う。
私が説明するより、写真と文字起こしをしたので、興味のある方は、ぜひご一読ください。
<看板の内容、文字起こし>
ここはかつて塚畑(つかばたけ)と呼ばれていました。 井手信英さんが農作業中に、突然、多量の銅鏡片などが出土。一九六五年(昭和四十年)一月の事でした。さっそく二月~五月にかけて前原在住の考古学者原田大六氏を調査主任として発掘調査が進められました。 驚きの発見の中で、特に注目を集めたのが、三十九面(※)にのぼる銅鏡群でした。 さらに、日本最古の白銅鏡については、原田大六氏は伊勢神宮の御神体である八咫鏡(やたのかがみ)と考察されました。 それは、後漢尺(こうかんじゃく)で測ると直径二尺(四十六・五センチ)、その周囲は八咫(百四十五センチ)の寸法を持っていること。 さらに「延喜式(えんぎしき)」や「皇大神宮儀式帳(こうたいじんぐうぎしきちょう)」に記された八咫鏡を納めた「樋代(ひしろ)」の寸法が平原大鏡の径に近いこと、「御鎮座伝記(ごちんざでんき)」記載の鏡の特徴が「八頭花崎八葉形也(はっとうはなさきはちようけいなり)」から平原大鏡こそ伊勢神宮の「八咫鏡」と同型鏡であると結論づけられました。 さらに、原田大六氏は墓の副葬品に武器が少ないこと、装身具が多いことなどから被葬者を女性と推定され、そして、鏡・大刀・勾玉という「三種の神器」が副葬されていたことから「天照大神(あまてらすおおみかみ)」(神格名・大日孁貴(おおひるめのむち))の墓であると確信されました。 伊都国こそ「天皇の故郷」とする原田大六説の論拠は、ここ平原弥生古墳で見つかった「三種の神器」が東遷して大和に至ったと推測されたものです。 なお、この遺跡の発掘調査報告書は、原田大六著「平原弥生古墳 大日孁貴の墓」として発行されています。
※その後の調査で、現在は40面と修正されています(開物注釈)
驚きの内容ですね
私は物部氏(もののべし)の十種神宝(とくさのかむだから)に興味を持ち、流れ流れて、この案内板で考古学者・原田大六さんに会った。
Wikiには「ケンカ大六」の人柄、面白い話が紹介されているので、ぜひそちらもご覧ください。
考古学者として恵まれない境遇の下、ゴツゴツして実直、生き方が下手な人だったようだ
不毛のヤマタイコク論争、北九州説・畿内説、議論をたたかわせる状況が江戸の時代から続いているが、少なくとも、私がそのあたりを調べていた頃に、大六さんという人に何かの印象を持つことはなかった。
九州の方々にしたら、そうではないだろう。
私が近畿(大阪)にいて、無意識に近畿サイドの論考ばかりに触れていたからだと思う。
私のそういった郷土愛は眼を曇らせるだけで百害あって一利なしと反省した。
しかし今はネット時代。十種神宝の2つの鏡の謎を探すうちに、平原遺跡のことを知りやって来た。ならではの出会いだった。
案内板には伊都国、大日孁貴のことは書かれているが、