菊の香に くらがり登る 節句かな (はせを翁)
大阪夕陽丘、浮瀬(うかむせ)亭での歌会に、伊賀から奈良を経由して大阪に向かう、病を押しての旅。
(弟子どうしの争いの仲裁もあった)
奈良で一泊の後、竜田川(※1)を超え、唐招提寺から暗峠の山道に入ったのは、元禄七年(1695年)九月九日(旧暦)重陽の節句の日。「はせを翁」は号。
大阪の東、生駒山、奈良と大阪をつなぐ暗(くらがり)峠。
鞍がひっくり返るほどの急坂であることから鞍返りが転じて少々コワ〜イ地名になったという。
私は何度かウォーキングで峠越えをしたが、2キロ弱に2時間近くかかる急坂の上り下り。いつも目が眩む。
病の身にはひどくきつかっただろう。
左:暗峠の最高所、奈良県と大阪府の境。石畳だがこれでも立派な国道308号線
右:「菊の香に」の句碑(大阪側の麓近く)
菊に出て奈良と難波は宵月夜
生駒を超え、ひたすら西に13キロほどで千日前通(せんにちまえどおり)から生玉神社(生国魂神社)に到着。
社の例祭日に間に合わせ、境内で詠んだ句。生玉神社境内の句碑(後藤西香 書)
此道を 行く人なしに 秋の暮れ(初稿)
此道や 行く人なしに 秋の暮れ(推敲)
浮瀬(うかむせ)亭は、江戸期の文人が集まる大坂の名所(料亭)だった。
芭蕉翁はこの時の句会(九月二十六日)で、最晩年、絶唱の二句を詠んでいる。
そのうちの一句の「初稿」。
私は飾りのないこの句が好きだ。
秋の夕暮れ。色づく秋の葉のひとつひとつが強い西日に照らされた一本道(長く伸びた自分の影)
初稿の「この道を」は、句会では「この道や」に推敲された。
たった一文字の変更だが、翁の諦観(ていかん)がより強く表れることになる。
長い旅の道行きが、間もなく尽きることを悟った故か。
「この道や」の道は「俳句の道」とも解釈される。
芭蕉翁は、同年十月十二日、南御堂(御堂筋)の花屋仁左衛門宅で客死する。
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西に沈む夕陽を観て観想するのが日想観(にっそうかん)。十一世紀(平安時代)以降の四天王寺さんは修養の本場だった。近くの一心寺(いっしんじ)さんでは法然上人(浄土宗)が思索を深めた。
京都・清水寺(舞台)も日想観の場。朝日を拝んだり、星を見上げるのとはまた一味違う体験だ。
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現在、大阪星光学院(※2)の敷地内に浮瀬亭跡、芭蕉園が保存されており、学院の卒業生が碑をいくつか建立している。
この句は「所思碑」に刻まれているが、残念ながら写真を残していない。
あらためて学院にお願いして見学の後、他の句碑も含めて紹介したいと思っている。
※2:東大・京大を含む難関大学に毎年相当数の合格者を輩出する西日本でも有数の進学校。物理・数学オリンピック出場者にはほぼ在学生が名を連ねている。今は二十数歳になった子供たちが小学生の頃、校長先生によく声がけしてもらっていたようだが、我が家はまったくご縁がなかった。