失われた古代遺跡(百舌鳥古墳群)
世界遺産登録を機に、堺市博物館・特別展の見学に訪れたが、あらためて驚いたのが、百舌鳥古墳群でも相当な数の古墳が「土地開発」によって失われていることだった。
少し見づらいかも知れないが、写真の白ヌキになっているのがそうだ。履中天皇陵古墳の南側の「7」など、かなり大きなものだ。
グーグル地図で道路の形から古墳跡ということが、かろうじてわかる。跡の一部は公園になっていた。
古墳造営は古代の国土開発のこん跡
狭山池は推古天皇期、聖徳太子が造営した日本最初の人工の溜め池で、江戸期に至るまで日本史の節目節目で大きな増改修を繰り返してきた「産業土木遺跡」である。
溜め池底部から出土した木樋の年代測定で、築造が古墳時代の直後(聖徳太子の時代)であることが特定された。
大阪南部の「水田平野化」は百舌鳥・古市古墳群を含む多数の古墳群の形成と表裏一体、古墳時代以降、この広大な地域の「治水」は、民・国ともに切実な問題だった。
狭山池から四天王寺までの20数キロを展望した模型。多数の溜め池が見られる。
開発に利用された古墳の石棺
博物館の玄関や館内には多数の古墳の石棺が、展示されている。
ただし「古墳」の展示としてではない。狭山池の増改修、具体的には導水管に利用・加工された状態での展示だ。
古代から続く開発と保護
特に規模の大きな古墳は沖積地を水田化し、自ら森林化することで保水する「国土開発」と「環境保護」を両立させた優れたシステムだ。
急速にクニが大きくなり始めた時代、石棺が水田稲作の発展に再利用されたことは、埋葬された者(王)にとってはある意味、本望であったのかも知れない。
ただ戦後の経済発展に伴う「土地開発」は、そんな悠長なものではなく、埋葬者にとっても環境破壊だ。
この度の世界遺産の認定で、この地域の古墳群は維持されることになったが、今後は「観光開発」の課題が生まれる。
これからが本番だ。
観光ニーズと兼ね合う中で、地元の人達や行政の「古代の記憶」を残すための不断で長い努力が始まる。
堺市博物館・特別展で展示されている平地和広画伯の古墳絵。イタスケ古墳と孫太夫古墳。