赤穂市有年考古館の学芸員さんから「せっかく遠い所から来たなら、見に行くといいですよ」と促され、
西宮山(にしみややま)古墳の御宝(たつの市立龍野歴史文化資料館)
に行った(赤穂市からたつの市まで約20キロ)記事末にポスター掲載。
京都国立博物館所蔵になっている古墳の出土品が、はじめて里帰りしたということで賑わっていた。
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たつの市は埴輪(はにわ)造りの土師氏(はじし)の祖、また、相撲の祖として伝承される「野見宿禰(のみのすくね)」の墓があるとされており、実は長い間、その所在地について論争されている。
ひとつは相撲取り組みの土器が出土した西宮山古墳
もうひとつは龍野神社・合祀社、野見宿禰神社
龍野歴史文化資料館の学芸員さんの話によると、野見宿禰神社の方は、明治期ごろに、伝承をもとに小社が置かれたそうで、しかし、現在までに考古学調査が行われたこともなく、少し旗色は悪そう。
ただ、西宮山古墳の方は、現在は県立龍野高校のグラウンドになってしまったという。
ならばと、野見宿禰神社の方に行ってみた。
野見宿禰神社
力水を見て笑っていたが、直後にその意味がわかる・・・延々と続く石段。
息を切らせながら上がって行くと・・・視線を感じる。石段が曲がっているあたりを見ると、野生のシカ。近づいていっても、なぜか逃げない。
ガサガサガサッと音がしたのでよ~く見ると、足元に焦った様子のコジカ。
なるほど! コジカを慌てさせないよう、立ち止まっている間に、親のいる所にようやく上がれた。
コジカのオチリがカワイイ。この後、親を追いかけてピョ~ンピョ~ン、森の中に消えていった。
・・・あともう少し。
明治15年(1882年)に出雲大社の千家(せんげ)尊福が野見宿禰墓の所在を訪ねて来たという。当時の粒坐(りゅうざ)神社の宮司らが、台山山腹の古墳のような高まりを墓であるとし、明治36年に整備が始まったそうだ。(粒坐神社は、上の龍野観光地図の17番)
社のあたりは塚で、ぐるりと一周できる。お社の裏から、たつの市を一望。遠くに瀬戸内海が見える。
野見宿禰まとめ、少し鉄と古墳の謎
● 垂仁天皇(第11代、BC29年~AD70年。在位99年。あり得ないが・・・)の時代の人
● (日本書記、垂仁7年)当麻邑(たいまのむら、奈良県、二上山の麓)の当麻蹴速(たいまのけはや)と史上初の相撲取り組みを行い、うち破り(=殺し)、褒美に当麻の地を与えられ、そのまま朝廷に仕えた
● (日本書記、垂仁32年)皇后のヒバス姫が亡くなったとき、陵墓に生きた人を埋めるのを止めて、代りに土人形を埋めることを奏上。出雲国から土部(はじべ)百人を呼び寄せ、土で作った人型や馬を献上し、陵墓に立てた。天皇は「今後は陵墓に埴輪を立て、人を損なうな」と命じた
● (播磨国風土記)土師・弩美宿祢(のみのすくね)は出雲国との行き来で、現在のたつの市あたりに宿泊していたときに病で亡くなる。出雲の人々が来て、遺体を立てて運び、川の小石を積み上げて墓の山を造ったことから「立野(たつの)」と呼ばれるようになった
● 先にも書いたが上記の墓所が長年の論争になっている
● 考古学的な議論はあるが、墳墓づくりにかかわった出雲の一族の長で、大和と出雲を往来、この時代には「大和~西播磨~日本海側の出雲」のルートがあったと考えて問題がなさそうだ
● 「野見」は墳墓の石室・石蓋を彫る工具のノミ(鑿)を表すとも言われ、もとは石工であったという説があり可能性が高い。垂仁天皇の治世から考えて、出雲に「鉄」の道具としての利用が「紀元前からあった」ことを示唆し定説と矛盾する(が、むしろ定説を再検討する余地があると考えている)
● なお、古墳時代(画期)は早くても西暦250年以降であり、つまり250年前から古墳の萌芽が見られたということになる。平原(糸島)の原田大六さんが提唱した「弥生時代の古墳」を支持する話だ。
西宮山(にしみややま)古墳の御宝展、たつの市立龍野歴史文化資料館(10月27日(日曜)まで)
〒679‐4179 兵庫県たつの市龍野町上霞城128-3 TELFAX:0791-63-0907
車で:山陽自動車道 龍野I.C.より2km
電車で:JR姫新線・本竜野駅より 1㎞、神姫バス・龍野バス停からすぐ