歴史上、秦河勝(はたのかわかつ、560ごろ~647年)は何度か登場するが、丁未(ていび)の乱(587年)で聖徳太子を補佐し、物部守屋(物部氏)を滅ぼしたことが最大のトピック、河勝が30前の話ということになる。
河勝が大避大明神(おおさけだいみょうじん)として天照皇大神、春日大神とともに祀られているのが、赤穂市坂越(さごし)の港町に鎮座する大避神社(おおさけじんじゃ)だ。
神社の御由緒によると「皇極三年(644年)に太子亡きあとの蘇我入鹿の迫害をさけ(難波の浦から)海路をたよって坂越浦にお着きになられ、千種川流域の開拓を推め、大化三年(647年)に八十余歳で薨(こう)ぜられた」と書かれている。
この説話は、世阿弥(ぜあみ)の風姿花伝(ふうしかでん)を元にしたものと考えられる(後述)
なお私は蘇我氏はいなかった説で、御由緒の「蘇我入鹿の迫害をさけ」の部分を探したが、風姿花伝にそういう表現はなかった。後に付け足されたのだろう。
参考までに言うと、大阪府寝屋川市川勝町には「伝・秦河勝の墓」がある他、太秦(うずまさ)という地名もある。このあたりの経緯や関連は今のところよく分からない。らためて調べておきたいと思う。
生島(樹林は国指定・特別天然記念物)
神社の前、坂越湾に浮かぶ生島(いきしま)は、秦河勝が生きて着いた島であることから名づけられたと伝承されている。
島内に河勝公の墓、神水井戸、浜辺に石鳥居と御旅所、坂越の船祭で使用される祭礼船を格納する船倉があるとのこと。
古来、御神域で樹木の伐採はもちろん、祭礼以外に島に上がることも怖れられてきたため、樹木が原生林のままで保存されており、大正期に国の特別指定天然記念物に指定された。
世阿弥・風姿花伝より
かの河勝、欽明、敏達、用明、崇峻、上宮太子に仕え奉る。此芸をば子孫に伝え、化人跡を留めぬによりて、摂津国難波の浦よりうつほ舟※1に乗りて、風にまかせて西海に出づ。播磨のしゃくし(坂越)の浦に着く。浦人舟を上げて見れば、かたち人間に変れり。諸人に憑き祟りて、奇瑞(きずい、めでたい事の前兆として現れた不思議な現象)をなす。則、神と崇めて、国豊也。大きに荒るる※2と書きて、大荒大明神と名付く。今の代に、霊験あらた也。本地毘沙門天王にてまします。上宮太子、守屋の逆臣を平らげ、給いし時も、かの河勝が神通方便の手にかかりて、守屋は失せぬと云々。
※1うつほ舟=虚舟?。生きた人が乗るものではないようだ。折口信夫や柳田國男が真面目に論じている(Wiki)UFO説もある笑
※2荒るる、古代では「(神が)生まれる」「新しい(神)」という意味がある。例えば「御荒(みあれ)」。関連して海退期の湿地帯からのクニウミ(クニ造り)を意味し、物部氏の言霊だ。つまり生島(いくしま)はクニウミをあらわす。しかし坂越では「いきしま」と云い、生きて島に漂着したからと、異なる意味をもたせている点が面白い
坂越の船祭
毎年10月第二日曜日の神幸式(船渡御)は瀬戸内海三代船祭のひとつ。三百年以上続く伝統行事で十二隻の和船で行われる。
坂越は北前船(きたまえぶね)の寄港地として江戸期に栄えた港町で、海路の交通安全を祈願したのが発祥で、絵馬堂には古い北前船の絵馬が掛けられている他、船渡御で使用された和船も展示されている。
日本遺産・坂越の港町(北前船寄港地、船主集落)
生島を眺望できる大避神社前の駐車場は大変広い。