九月初旬、残暑厳しい最初の三連休に宇陀市を訪れた。
地図的には、三輪山のある桜井市から中央構造線の北側に沿って東、最初の盆地、というのがわかりやすく、
江戸期、大阪からの「おかげ参り(お陰、お伊勢参り)」のコース(伊勢本街道)だった
古代史的には飛鳥京から奥明日香(稲渕・柏森、入谷)へ、吉野を経由して伊勢に至る、奈良県側の一帯に含まれる。
もちろん私の興味は古代史の方だが、特に宇陀は、
神武東遷(東征)神話で、熊野山中から奈良盆地に入るルートの要衝であったところで
熊野から大和までの道案内をした賀茂建角身命(かものつぬみのみこと)を祀る八咫烏神社(やたがらすじんじゃ)がある。
黄色く色づいた田んぼの中の道、鳥居の先。
広い境内には拝殿(神楽殿)、手水舎、いくつかの石碑が散在している感じ。中でも目を引いたのは、サッカー日本代表・ヤタガラスのユーモラスな石像。
拝殿に置かれた賽銭箱には、京都で見慣れた葵の御神紋。
下鴨・上賀茂とも違うが、どちらかというと上賀茂社に似たデザイン。
御由緒には「八咫烏は在地氏族で伝承されていたが、京都の賀茂県主(かものあがたのぬし)が有力な時代になり、賀茂氏が祖とする武(建)角見命が八咫烏となった」と書かれている。
「在地氏族」とは大和にやって来た出雲の鴨族。
八咫烏神社の創建は705年(慶雲二年)。続日本記に「八咫烏の社を大倭国宇太郡に置いた」と書かれている。1800年代はじめの江戸期に現在の春日造の社殿に整備されたそうだ。
京都の賀茂県主は山背北部に住み着いた出雲族、後に下鴨・上賀茂の禰宜の系統となったが、うち、上賀茂系が八咫烏神社の創建に関わったのだろう。
本殿は、拝殿奥の石段を上りきった緑に囲まれたところ。
上がって行くと、鮮やかな赤と青の色彩が目に飛び込んできた。
あおによし(青丹によし)
頭に浮かんだのは「ならのみやこ」の枕言葉。諸説あるが説明不要だろう。
大和のクニは朱の「赤」と銅の「青」が美しい都という意味はもちろんだが、古代、貴重な「モノ」が都に集まっていたことを威光として表現していると思う。
朱は「丹」とも云うが水銀、青はブルーマラカイト(藍銅鉱、孔雀石も近い組成)だ。
水銀は中央構造線に沿って露出する鉱脈で採れる。
銅は、奈良時代、山口や北九州の主に西日本で採れた銅が東大寺の大仏造営に使用されていることから、遠く運ばれてきた。青や緑、色のある鉱石は、古代、銅山の初期鉱脈でしか採取できず、集めるのに苦労したはずだ。