(注意)天理参考館では弥生時代の始まりをBC300年としている(近年はBC1000年とする説が有力)
天理参考館の建物に入ったロビーフロアに、実際に出土した円筒埴輪(壺型埴輪)を使って、古墳時代の布留(ふる)の祭場が復元展示されていた。
布留遺跡・説明(文字起こし)
布留遺跡は天理市周辺では最大の遺跡である。旧石器時代から現代まで続く複合遺跡で、布留川をはさんで東西約2km、南北約2kmにもおよぶ。特に栄えたのは縄文時代と古墳時代である。しかし、継続して集落を営むようになるのは弥生時代末期からである。古墳時代中期になると主張の館・工房・祭場などがもうけられるなど、当時の奈良盆地でも重要な町として発展していた。首長の墓が遺跡の南と北に築かれた。南のものは杣之内(そまのうち)古墳群、北のものは石上・豊田(いそのかみ・とよだ)古墳群とよぶ。
古墳時代の繁栄は古代氏族である物部氏によるものと考えられている。
平安時代以降、都が奈良盆地を離れるとしだいにさびれていった。ここでは布留遺跡およびその周辺で行った発掘調査で出土したものの一部を展示している。また、布留遺跡でみつかった埴輪などから古墳時代の祭場の様子を復元した
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布留(アラケ)地区(地図中心あたり)から出土した円筒埴輪は三角、半円、巴(ともえがた)形に抜かれた特殊なもの。
出土地は周囲の地形や出土物から「古墳ではない」つまり、祭祀場と考えられている。
円筒埴輪(土器)を「方形」に並べて区画、中央に滑石でできた玉類・土師器高坏・小型の壺を載せた木製の机(復元)が置かれていた。
説明にあるように、古墳時代・物部氏の祭祀のありようを想像するのに格好の展示だ。
石上神宮の「鎮魂祭(みたまふりのみまつり)」を紹介するページの最後のイラストに描かれた机は、天理参考館で復元されたものをイメージしたものだろうか。
あるいは神宮に伝わる古式に基づき描かれたものかも知れない。
(リンク先ページ・鎮魂祭より)
饒速日命(にぎはやひのみこと)の御子様に宇摩志麻治命(うましまじのみこと)がおられました。宇摩志麻治命は、初代の天皇である神武天皇と皇后の聖寿の長久を祈られる時、天璽十種瑞宝を用いて鎮魂祭(みたまふりのみまつり)を斎行されました。これが鎮魂祭の初めとなったことが『先代旧事本紀』に記されています。この物部氏の鎮魂は、御魂を振動させる「御魂振り(みたまふり)」と「玉の緒」を結ぶことが中心です。「玉の緒」とは玉を貫きとめる緒(ひも)のことで、玉(たま)と同音の「魂(たま)・命」を結び留めることを表しています。現在も石上神宮では11月22日夜に「鎮魂祭(ちんこんさい)」を、また節分前夜に「玉の緒祭(たまのおさい)」を斎行しています。
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様式的に、アラケの祭祀場で行われていたのは、十種神宝(とくさのかむだから)を用いた原初の鎮魂祭・玉の緒祭、と解釈することができる。
考古学や日本史界では「先代旧事(ぐじ)本紀」は、日本書紀・古事記のように正書として扱われていない。しかし、こういった物部祭祀のあり方や、記紀に書かれていない歴史や家系図など、より学問的に研究され、検証される価値がある歴史書だと考えている。
日本古代史の画期(新旧比較)
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