叡福寺(えいふくじ、大阪府太子町)は磯長陵(しながりょう)、考古学では叡福寺北古墳と云われる。
大和奈良の葛城から竹内峠を超えて、河内大阪に入り叡福寺北古墳(磯長陵)のある一帯が磯長谷。
敏達・用明・推古・孝徳の歴代天皇陵が「磯長」で営まれたと日本書紀に見える。
磯長を含む二上山の麓の河内側は、古事記で、難波宮(地図左上)からの距離で「近つ(ちかつ)飛鳥」とよばれたエリア(現在の羽曳野市飛鳥周辺)でもある。
皆がよく知っている大和の飛鳥は「遠つ(とおつ)飛鳥」
叡福寺北古墳
古代妄想レベル:★★★=MAX ★★=MEDIUM ★=MIN or A LITTLE
山門をくぐった叡福寺境内のさらに奥。叡福寺古墳ともいわれる。直径54メートルの三段構造の円墳。
★この時代には(関東を除き)前方後円墳は造られなくなっている。なぜなら、前方後円墳を様式化し、権威化した物部氏(物部守屋)が、聖徳太子らによって滅ぼされたからだ(丁未の乱、587)
墳丘の南側に三段の屋根の御霊屋(みたまや)があり、内部に横穴式石室が設けられている。明治12年に石室が詳しく調査された。
叡福寺の東隣に「太子和みの広場」という公園があり、公園内には太子や古墳に関連する展示物が置かれている。その中に、石室内の復元模型があり、石室内には3つの棺が置かれていた。
奥の(横にして)置かれたのが、お母さん(用明天皇の皇后)の穴穂部間人皇后(あなほべのはしひとこうごう)の棺
手前に並べられた二つのうち大きな方が、聖徳太子の棺
小さい方が、妻(正妻、妃)の膳部太郎女※(かしわでのいらつめ)の棺。
三人が一ヶ所に葬られているところから「三骨一廟」という。
なぜ、三骨一廟になっているのかというと、三人が時を置かず、特に聖徳太子と妃はほぼ同時に亡くなったからだ。
皇后が推古29年(621年)崩御の翌年の二月、斑鳩宮(法隆寺)にて20日に妃、21日に太子が亡くなったとされており、押し込んだような急造りに思える埋葬状況(棺の設置状況)がその様子を物語っている。
※膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)。叡福寺の由緒書に従い、膳部太郎女とした
以上のことから、特に二人の死因について、伝染病説、毒殺説、看病疲れ説など諸説入り乱れ、まったくの謎だ。
日本書紀には厩戸皇子(聖徳太子)は推古29年(621年)2月に斑鳩宮で亡くなり「是の月に上宮太子を磯長陵に葬る」と記されている。
一方、中宮寺(法隆寺隣)の天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)と法隆寺金堂の釈迦如来三尊像の光背銘には、太子没年は推古30年と記されている。
死亡年についてもブレがあり、様々に推理されている。
聖徳太子は、そもそも実在も含めて、謎の多い日本史の偉人で、今のところ、古代妄想もさすがに及ばない。四天王寺さんの近くで生まれ、暮らす私には「身近すぎる」のかも知れない。
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