前回(大嘗宮の黒木鳥居と柴垣の結界)
先日紹介した大嘗宮の結界。同じ組み方をしている京都・嵯峨野(嵐山)の野宮神社(ののみやじんじゃ)を見学してきた。
大堰川(おおいがわ)が桂川に名前を変えるあたり「渡月橋」をわたり観光街メインストリートをしばらくゆくと看板に従って左折。
今頃の時期、花灯路(はなとうろ)で賑わう竹林の中に鎮座する。
朝の9時過ぎだったが、すでに外国人観光客が多かった。
大嘗宮と同じクヌギの黒木鳥居とクロモジの柴垣
黒木鳥居は樹皮のついたままの「くぬぎ」の鳥居で日本最古の様式。当初は三年毎に建て替えをしていた。
しかし近年はくぬぎの入手が困難になり、現在のものは香川県高松市の会社の寄進を受け、防腐加工処理をして設置したという。
樹皮の表面がツヤツヤでレプリカかな?と思って神職さんにお聞きしたら、防腐処理で光沢があるとのこと。
鳥居の両サイドの柴垣は「くろもじ」を使い、黒木鳥居とあわせて往時のまま。この様式は大嘗宮と同じ。
野宮神社
(説明文字起こし、途中から)歴代天皇は未婚の皇女を(伊勢)神宮に奉仕せしめられ、これを斎宮(さいぐう)といった。斎宮に立たれる内親王は、まず皇居内の初斎院で一年余り潔斎されてからこの野宮に移り、三年間の潔斎の後、初めて伊勢に向かわれたが、その時の行列を斎王群行といった。斎宮は垂仁天皇の時に皇女倭姫(やまとひめ)命をして奉仕せしめられたのが始まりで、その後、北朝時代(十四世紀後半)に廃絶した。野宮は源氏物語にも現れ、謡曲、和歌などに謡われているが、黒木の鳥居や小柴垣は昔のままの遺風を伝えるものである
補足説明すると、姫御子(天皇の娘、内親王)が天照大神を祀る伝統は、紀元前後より続いていた。
伊勢斎宮(いせのいつき)は第10代崇神天皇の代(紀元前後)、皇女の豊鍬入姫(とよすきいりひめ)に、天照大神を大和の笠縫邑(かさぬいむら)に祀るよう命じたのが始まりで、笠縫邑は檜原神社(奈良県桜井市)のこと。
次の11代・垂仁天皇の代に、娘の倭姫が天照大神を祀る場所を求めて各地を巡り(元伊勢)、最後に五十鈴川のほとりで伊勢神宮を営んだ。
その後、歴代天皇は斎宮を置き、後醍醐天皇の皇女・祥子内親王まで続いたが、南北朝の兵乱で廃絶した。
「野宮(ののみや)」とは一年間の初斎院での潔斎の後、宮城外での清浄な野を選んで造られ、平安京以降、主に嵯峨野が選ばれていた。
野宮の地は定まったものではなく、現在の野宮神社は、最後の野宮跡とも考えられるが、いつの時代のものかははっきりしていない。
野宮神社の周囲は、野の宮竹と云われる美しい竹林。
花灯路コースの神社周囲の竹林は混雑していてよい写真が撮れなかった。代わりに化野(あだしの)念佛寺の竹林をどうぞ。こちらは竹の枝を束ねてつくる竹垣。