休みも始まり、久々、自宅から住吉さん(住吉大社)まで8キロウォーキング。
あべのハルカス前からは、ほぼ阪堺(はんかい)電車の軌道に沿って歩くウォーキングコース。
大海神社と海幸山幸(うみさちやまさち)神話
住吉大社の境内社・大海神社(だいかいじんじゃ)にお参りした。
大海神社の御祭神は、海幸山幸(うみさちやまさち)神話の海宮の竜王・豊玉彦命(とよたまひこのみこと)と、その娘・豊玉姫命(とよたまひめのみこと)。
豊(トヨ)は、現在の大分・福岡北部・山口南部を領土とした古代王国「豊(とよ)の国」のこん跡(キーワード)と妄想している。
住吉さんは、弥生・古墳時代のモノノベ全盛期 、瀬戸内海~福岡~対馬~韓半島南部の交易ルート、日本側の出発点で、船底が深い構造船の出入りがしやすい良港(住吉津)だった。(先日記事)
水深が深くて「墨」のように黒く「葦」が生える港というほどの意味で「すみよし」と呼ばれたという説も(葦は”あし”とよむが”よし”とも読む)
住吉大社の南に「墨江」という地名もある。
創建時代、鳥居のそばあたりまで来ていた海岸線に西面している。
江戸の文化人・大田南畝(おおたなんぽ)の文学碑
境内で写真を撮っていると、ちょうどお参りされていたお爺さんに声をかけられた。(お年寄りと猫とはよく会話する。笑)
お聞きすると現在93歳で長年、大学で国文学を教えておられた方で「特別に」境内にある文学碑を教えていただいた。
大海神社には何度もお参りしており、らしいものを見たことがなく「???」とついて行くと、本殿横の立ち入りできない柵の向こうに、相当風化の進んだ碑があった。写真は柵の間からスマホをかざして撮影。
大田南畝(なんぽ。寛延2年(1749年)~文政6年(1823年))。別号・蜀山人。江戸で幕府官僚のかたわら狂歌で名声を得た文化人。
大阪銅座の役人として赴任した約一年(1801年)の時代に建てられたのだろう。碑に何と書いてあるのか、調べ方は教えていただいたので、また追記しておく。
【2022年3月12日追記】
摂州住吉宮地全図(文政十年 1827年)
お爺さんと別れ際に思わぬプレゼントをいただいた。「神社に興味のある人にあげているんだよ」と、江戸時代の住吉さんの宮地図のコピーをいただいた。
当時の住吉さん詣りの観光案内図のようなものだろうか。摂津名所図会(1790年代)より後の時代の作だが初見の図だ。
(左側が北)
時代的には、勝海舟(かつかいしゅう)は文政六年(1823年)の生まれなので、海舟が子どもの頃の地図ということ(明治維新(1868年)の約四十年前)。海舟は江戸から明治への大政奉還の幕府側の主役。
家に帰ってしばらく地図を眺めていた。
以前書いたことの新情報、また気がつかなかったことがいくつかあるので、また少し詳しく。