前回記事(摂州住吉宮地全図(1827年)に描かれた住吉さん-仁徳陵、南北ラインの謎を探訪)
今回は 方違神社 の西、約1キロに鎮座する開口神社(あぐちじんじゃ)の紹介(大阪府堺市堺区甲斐町東2丁1-29)
社伝では神功皇后(じんぐうこうごう、第14代仲哀天皇皇后、西暦200年代、住吉大社第四本宮の御祭神)の時代に現在地に創建。
奈良時代(西暦700年代)には、港を守護する開口水門姫神社(あきぐちみなとひめじんじゃ)と呼ばれていたそうだ。
天永四年(1113年)に開口村(あぐちむら)、木戸村(きどむら)、原村(はらむら)の三村の神社を併合したので「三村宮」「三村明神」と称された。
御祭神は、開口村の塩土老翁神(しおつちおじのかみ)、木戸村の素戔嗚神(すさのおのかみ)、原村の生国魂神(いくたまのかみ)。
社紋(御神紋とは云わない?)は、珍しい三つ茄(なす)。 もともとは三つ巴紋だったが、奈良時代・白鳳年間(西暦600年代後半)に氏子の夢に三つの茄子が出て来たのが目出たいことだと、巴(ともえ)が茄子に変わったと伝えられている。
「剣が大根」になったケースは知っていたが「巴が茄子」は始めてだ
伝は別にして、紋が野菜に変えられるのは「無力化、武装解除」を意味し、対抗勢力の消長の歴史のこん跡のように思う。
奈良時代・天平年間(西暦700年代前半)、河内の僧・行基(ぎょうき)が境内に念仏寺を建立してから神仏習合の霊地となった歴史があり、地元では「大寺(おおてら)さん」とも云われるようになった。
明治の境内図には大寺さんのシンボル、三重塔が描かれているが、太平洋戦争の大阪大空襲(堺大空襲)で焼失した。