ひとつの本殿に2つのタイプの千木
京都市内北東部、吉田山に鎮座する吉田神社の末社のひとつ、斎場所大元宮(さいばしょだいげんぐう)。
本殿千木の前が内削ぎ(平削ぎ)、後ろは外削ぎ(縦削ぎ)。ひとつの本殿で、このような様式はここだけだろう。
なお、伊勢神宮の内宮は平削ぎ、外宮が縦削ぎであるところから「内」と「外」で表現される。
千木の様式から「内削ぎは女神、外削ぎは男神」とよく云われるが、実際にはそうでないことの方が多い。
例えば、その伝でゆけば、伊勢外宮(豊受大御神、トヨウケヒメ)が男神というおかしなことになってしまう。
斎場所大元宮(慶長6年(1601)建築、重要文化財)
千木のスタイルから、斎場所大元宮がどのような考え方(コンセプト)で建てられたのか、ある程度理解できる。
一言でいえば「オールインワン」
御祭神
天神地祇八百萬神(あまつかみくにつかみやおよろづのかみ)
東神明社(内宮)天照皇大神
西神明社(外宮)豊宇氣比売神
東西諸神社に式内神3132座
(説明板文字起こし)天神地祇 八百万神(あまつかみくにつかみ やおよろずのかみ)を祀る大元宮を中心とし、周囲に伊勢二宮(内宮と外宮)をはじめ、全国の延喜式内社三千百三十二座を奉祀する。もとは神職の卜部(うらべ)(吉田)家邸内にあったものを文明十年(1484)に、吉田神道を創設した吉田兼倶(よしだかねとも)がここに移築したもので、吉田神道の根本殿堂とした。
天正十八年(1590)には天皇守護のため宮中の神祇官(じんぎかん※)に祀られていた八神殿が社内後方に遷され、慶長十四年(1609)から明治四年(1871)まで、神祇官代としてその儀式を執行した。 本殿は慶長六年(1601)の建築で、平面上八角形に、六角形の後房(こうぼう)を付した珍しい形をしている。屋根は入母屋造(いりもやづくり)で茅葺(かやぶき)、棟には千木をあげ、中央に露盤宝珠(ろばんほうしゅ)、前後には勝男木(かつおぎ)を置く特殊な構造である。この形式は密教・儒教・陰陽道・道教などの諸宗教、諸思想を統合しようとした「吉田神道」の理想を形に表したものといわれる。
全国のあらゆる神々を祀るため、当社に参詣すると、全国の神社に詣でることと同じ効験があるとされ、毎年節分の日を中心に前後三日間行われる「節分祭」には多数の参詣客で賑わう(京都市)
※神祇官:古代日本の律令制で設けられた朝廷の祭祀を司る官庁名
正月三が日、毎月一日、節分祭に限り、大元宮の本殿や東西諸神社など特別にご参拝頂けます(当宮HPより)
昨年、四天王寺さん・秋の古本市で購入した「新撰京都名所図会(昭和三十三年初版)」に境内図があった。
中心の八角形の本殿、東西に日本国中総神社(3132座)、後方の東側に内宮(東神明社、天照皇大神)、西側に外宮(西神明社、豊宇氣比売)、中央に八神殿跡。
(天皇を守護する八神殿は現在、皇居の神殿(宮中三殿のひとつ)に合祀されている。Wiki。八神についてはいずれ)
お参り当日は普通の日曜日で境内に参拝できなかった。ここには神社・神道を基本理解するためのいろいろな要素があると思う。2月の1日、節分祭に、またあらためてお参りして、見て来ようと考えている。