万葉集の編纂に関わったとされる大伴家持(おおとものやかもち、718年頃~785年)は、三十六歌仙の一人で、小倉百人一首にも名を連ねる。
歌人として知られるが、実は、ヤマト朝廷以来の古代豪族、武人の家系で、奈良時代の大伴氏の頭領だった。
家持が高級官吏として難波宮に赴任していた時、鵲森宮(かささぎもりのみや)で詠んだ詩は百人一首に含まれている。
鵲の渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける
古代妄想レベル:★★★=MAX ★★=MEDIUM ★=MIN or A LITTLE
今、周囲は交通量の多い駅前商業地で、川もないが、明治大正の頃まで鳥居前に天野川が流れ、鵲橋が架かっていた。
注目したのは鵲橋が反り橋で、渡った向こうに「シマ=境内」がある神社の様式。このような浮島(ウキシマ)型は典型的なモノノベ式と考える(こういう基本様式は時代が変わってもあまり変えられることはない)
前回紹介した通り、鵲森宮は物部氏最後の頭領、物部守屋の居館。そこには住まいとともに、天照大御神・素戔嗚尊・月読命を祀る社があった(→ビル屋上の奥社)
つまり、この場所は一時ヤマト朝廷を凌ぐほど権勢を誇った『河内期・物部氏』の核心地だったということ。
物部氏のライバルだった大伴氏
大伴氏を考える手掛かりが葛城市歴史博物館のパネル。古墳時代・大和の豪族の勢力地と前方後円墳の関係がよく見える。
大伴氏は王権の直近に位置するが、領地には前方後円墳を造っていない。
物部氏とは対照的で、大伴氏は大王家を挟み、強いライバル関係にあったと思われる。
私は『前方後円墳はモノノベ様式』として考察し、ウキシマ神社と併せて祭祀を独占、半島マーケット(おそらく伽耶、かや)を創り、ヒスイと鉄の交易で、やがて大王家を凌ぐほどの力を持つに至ったと推理している。
そんな中、徹底して物部祭祀を受け入れなかったのが大伴氏ではなかろうか。
そして直系子孫の家持が、物部氏滅亡後百七十年、宗家跡・鵲森宮で詩を詠んだのだ。(守屋とともに物部氏が滅んだ丁未の乱は587年。家持の鵲の一首は755年ごろ)
★★この妄想仮説に基づくと、詩はこう読める。「おく霜」の解釈がポイントで、私は奥社の「奥」と考えた(屋上の「屋」ではない笑)
(鵲の渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける)
鵲(物部氏)が渡した橋と奥シマ(=境内)に霜が降りて白く見え夜も更けてゆく(滅び去った者は侘しく見えるほどに世(夜)は変わったのだよ)
読み過ぎだろうか。
なお、この一首が詠まれた聖武天皇・755年の家持は、事務方の最高官僚として難波宮に赴任し、その毀誉褒貶と上り下りの激しかった人生で最初の「上り」の時期にあたる。気分はたいへん高揚していただろう。
大伴家持(Wikiなどからまとめ。歌人としての人生は省略)
大伴家持(おおとものやかもち)は奈良時代の公卿・歌人。大納言・大伴旅人の子。官位は従三位・中納言。
藤原氏との権力争いで度々名前が上がり、暗殺計画を練るなど、しかし都度、しかも没後も逃げおおせた政治力は大したもの。ずいぶんキナ臭い人だったようだ。
● 聖武天皇(749~ 757、都は恭仁→難波→紫香楽)755年ごろ難波宮で事務方の高官
● 孝謙天皇(757~ 765、平城)因幡守(地方官)から信部大輔として平城京に戻る
● 淳仁天皇(765~ 767、平城→保良)藤原仲麿呂を暗殺する計画に加わり露見。処罰は免れたが薩摩守に左遷
● 称徳天皇(孝謙重祚、767~ 770、平城)大宰少弐に転じ、称徳朝では主に九州地方の地方官
● 光仁天皇(770~ 781、平城)称徳天皇の崩御で左中弁兼中務大輔と要職に就き、11月の光仁天皇の即位に伴って、21年ぶりに昇叙されて正五位下。光仁朝では順調に昇進し781年に従三位
● 桓武天皇(781~ 782、平城→長岡)782年正月に氷上川継の乱への関与を疑われて解官されたが、4月に罪を赦され参議に復す
● 以降、783年には先任参議を越えて中納言に昇進。784年には持節征東将軍に任ぜられて蝦夷征討の責任者。多賀・階上を正規の郡に昇格させた後、逝去
● 没直後に藤原種継暗殺事件が造営中の長岡京で発生、家持も関与していたとされ、追罰として埋葬を許されず官籍からも除名された。子の永主も隠岐国への流罪となった
● 家持は没後20年以上後に恩赦で従三位に復す
(参考)長野県、生島足島神社。ウキシマ様式
生島足島神社では反り橋を渡った本殿のある所を「神島」と呼ぶ。全国の弁天社でふるいものは基本ウキシマ。出雲信仰の地を神社化した「出雲後物部」のスタイルと妄想