大阪に住んでいるおかげで、古代を考えるときは古地図を確認するクセがついている。
現在の日本の沿岸部平野は、例外なく、縄文晩期~弥生時代に海抜が下がる「海退」と、河川が運ぶ土砂の堆積(沖積)でできた「新しい国土」で、ここを押さえておかないと、古代史の考察を大間違いすることがあるからだ。
大阪の場合、淀川、特に大和川の流れに注目。元々大和川は北上し大阪平野を創ったがよく氾濫もした。江戸期に、八尾辺りで流れを西向きに変えられたことから「新大和川」といわれる。旧大和川の河口は大阪城(大阪歴史博物館)あたり
参照できる古地図がない時は、グーグルの航空写真で縄文・弥生時代の海岸線を想像して考える。
はてなブログを始めた去年春、河内・物部氏にからめて『古代大阪のウオーターフロント』について書いたことがあった。
大阪歴史博物館のリアル地図を下敷きに補足してみた。
玉祖道(たまおやみち、たまそみち)とは、大阪城の南の 玉造稲荷神社(大阪市中央区)と、生駒山の麓の 玉祖神社(八尾市神立)を結ぶ古道で、古墳時代・河内のヒスイ勾玉・玉作集落どうしのネットワークだったと伝えられる。
点線は、二つの神社を結ぶ俊徳街道や十三街道ルートで、おそらく中世以降、玉祖道と云われたが、古墳時代には大半が湿地帯、遠浅の潟だった。
したがって古墳時代の実際の玉祖道は、実線のJR関西線(大和路線。八尾から大和川に沿って奈良に向かう)や国道25号線に沿って八尾まで進み、玉祖神社に向かって生駒山系の麓を北上したと考えられる。
モノノベ・ものづくり王国のこん跡地名
地図にも書いた通り、このルートに沿って、例えば、八尾、弓削、加美、鞍作などの当時の「ものづくり」に因んだ地名が残されている。
例えば、弓を製作する弓削連(ゆげのむらじ)が弓削を拠点としていたが、弓削氏は物部系一族(部民)とされる。
また、鞍作は鞍作部・鞍部ともいわれ、鞍(馬具)の製作に従事した渡来系とされる。
飛鳥大仏(飛鳥寺)の後背には「司馬鞍首止利」(しばくらつくりのおびととり)と記されていることから鞍作止利(くらつくりのとり)が作者とされるが、止利は鞍作の人であったと考えられる。
加美は要するに「デコレーション」のことで、造形物を美しく仕上げる技術は仏像と馬具に共通する。今でも「加美鞍作」とまとめられるように二地域は隣り合っている。
古墳時代を導いたモノノベ式祭祀経済モデル(祭祀=神社と古墳)
古墳時代、最盛期の河内期・物部氏は、上町半島~住吉津、ウォーターフロントを幹線で繋ぐ広大なエリアを支配しており、地域ごとに、国内の職業集団はもちろん、韓半島南部からも多数を居住させ「ものづくり王国」を築いた。
そしてこの産業基盤を原動力に、百舌鳥・古市古墳群を始め、海退で現れた平野部を舞台に新国土開発を進め、古墳時代を導いたとワンストーリーで考えている。
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なお考謙天皇(女帝、757~ 765、後に重祚して称徳天皇767~770)の時代に重用され「天皇になろうとした男・道鏡」は弓削氏の出自、つまり、物部氏直系に近い子孫。
日本史では悪人として描かれるが、弓削道鏡は、かつての「物部王国」の復興をおもい描いていたのではないだろうか。