昨年11月、史跡・亀ヶ岡遺跡を見学した時に、亀ヶ岡考古資料室(縄文館、青森県つがる市木造舘岡屏風山195)を訪問した。
青森県道12号線、鰺ケ沢蟹田(あじがさわ・かにた)線沿いの亀ヶ岡遺跡から西南に車で約5分、大溜池を見下ろす丘の上に位置し、縄文館ともいう。
11月上旬、津軽の最晩秋で、訪問した日曜日の翌週には、初雪の予報も出ていた頃。
この日は、青森市から車で「亀ヶ岡遺跡⇒雷電宮⇒資料室⇒ベンセ湿原⇒十三湖」を巡ったが、日本海の強風の中、大雨が降ったりやんだりで、結局、資料室の職員の方と話した以外、誰にも会わず話もしなかった。笑
(遺跡近くの雷電宮、資料館から海側へ約4キロのベンセ湿原は記事末にリンク)
亀ヶ岡文化(圏)
亀ヶ岡石器時代遺跡は、3000年~2300年前の『縄文晩期』『亀ヶ岡文化』の中心だったところで、明治20年(1887年)に遮光器土偶(しゃこうきどぐう、国重要文化財、高さ34センチ、東京国立博物館所蔵)が出土したところとして有名。
遮光器土偶は、中が空洞になった中空型、デフォルメされた人体デザインが特徴的な独特の様式で、北東北を中心に、北は北海道南部(渡島半島)、南は南東北、新潟あたりまで主に分布し、この分布圏を亀ヶ岡文化(圏)ともいう。
遮光器土偶(破片含む)は、南は北九州、北は樺太(からふと、現ロシア領)まで広がっていたことが確認されている。
東北の縄文晩期は(弥生が紀元前千年から始まるとする最新知見では)西日本の弥生時代(前期・中期)に相当し、つまり、亀ヶ岡文化は『(列島全体視点での)縄文から弥生への移行期』にあたり、その詳しい分析は、謎が多い日本古代史の解明につながる可能性がある。
亀ヶ岡物
遺跡の発見は江戸初期にさかのぼり、亀ヶ岡の出土品は造形彩色が美しく珍品として「亀ヶ岡物」と云われるほどブランド化した。
江戸期の骨とうブームの中、無断で発掘されたものも多く、中には海外まで散逸したものもあり、その数は一万点を超えるとも云われる。
私たちが各地の博物館や美術館で見る亀ヶ岡物は、それらのひとつであったものも多いのではないだろうか。
(次回、亀ヶ岡考古資料室の紹介)