亀ケ岡遺跡の年代は「縄文晩期」、3000~2300年前とされ、遺跡から出土した亀ヶ岡式土器は6つの様式に区分される。
亀ヶ岡文化
遮光器土偶を含む亀ヶ岡式土器は、北東北を中心に全国で20ケ所以上の遺跡から出土しており、大きな文化圏であったことがわかる。
(上で書いた)亀ヶ岡式土器の様式分類と編年(時代区分)の基準となった大洞貝塚(岩手県大船渡市)はNo12。
頭のない遮光器土偶
縄文時代晩期前半(約3000~2700年前)。大洞BC式段階。
(文字起こし)この遮光器土偶は、亀ヶ岡遺跡の北側の低湿地、近江野沢地区から出土した縄文時代晩期の前半のものです。有名な左脚の欠けた遮光器土偶のように、内部は空洞で、これと同じように眼部に雪眼鏡(=遮光器)をかけたような意匠(デザイン)を施した頭がついていたと考えられます。この土偶は、ベンガラと考えられる塗料で赤く塗られています。
参考に、超有名な東京国立博物館蔵の左脚の欠けた遮光器土偶と写真比較するとわかるように、ボディの細かなデザインは別として、姿かたちはほぼ同じで、
(後の時代でいうなら仏像のように)様式化され、『配られるために量産された』モノ、つまり、信仰あるいは権威の対象(象徴)物のように思える。
遮光器の由来
(資料館パネルより、文字起こし)まだ江戸時代の面影が残る明治の中頃。日本の考古学・人類学の創始者、坪井正五郎博士は、ロンドンに留学していました。ある日、大英博物館で細い切れ目の入った革製メガネ??を見つけました。これは北極近くの民族が雪の反射光を遮るためのいわば『雪用めがね』で遮光器と呼ばれるもの。博士は「日本の縄文時代晩期の土偶に似ている!」と気づき、すぐさま日本に原稿を送り、晩期の土偶の眼は「遮光器と見るが適当でござりませう」と学会で報告されたのです。これ以来目が細くなっている晩期の土偶は考古学者から「遮光器土偶」と呼ばれるようになり、皆さんからは「シャコちゃん」と呼ばれるようになったのです。
土偶の名の由来となった遮光器。確かに似ているが、私は雪眼鏡(スノーグラス)ではないと思う。
なぜなら、火焔型土器や縄文土偶を造り続けた縄文時代の(流れを汲む)人々が、モノを「写実的」に表現することはないと考えているから。
坪井博士の雪眼鏡の考察は、見たまんま・・・写実的すぎて、縄文思考ではあり得ないと考えている。
しかし、どう考えるのかは人それぞれ。皆さんも想像を巡らせてみてください。
次回、資料室に展示されていた『あるモノ』を通して、遮光器土偶の「スリット眼」の謎について、太陽の塔以来、あらためて少し考察してみたい。