縄文時代以降、日本の歴史は、弥生 ⇒ 古墳 ⇒ 飛鳥 ⇒ 奈良時代と変遷します。
古墳時代は物部氏が滅亡した『丁未の乱(587年)』とともに終わり、神仏混沌 の飛鳥時代が始まり、
飛鳥時代は『壬申の乱(672年)』で終わり、天皇制と中央集権体制の奈良時代が始まりました。
奥明日香・入谷(にうだに、にゅうだに)からの視点
丁未の乱は、大阪に住んでいて、四天王寺さんをはじめ、戦いの歴史が刻まれた神社仏閣、史跡にふれて来たこともあり、それなりに考察もできるのですが、ヤマトを舞台にした壬申の乱の方は、あまり詳しくありませんでした。
奥明日香あたり、入谷という山奥の大字(おおあざ)を訪ねて、2つの点で驚き、それから、壬申の乱について興味を持ち始めています。
● ひとつ目の驚きは、壬申の乱の勝者・大海人皇子(おおあまのおうじ)が、入谷に住んでいた海人族にバックアップされていた(伝承)こと、
● ふたつ目は、入谷からは大和盆地、さらには現在の大阪市内(難波宮、四天王寺)を物見できることでした。
河内(大阪市内)には、当時、敵方の第38代天智大王の息子・大友皇子のなんらかの拠点があったと考えられるからです。
(後期)難波宮(難波長柄豊碕宮)は孝徳大王(36代)の造営となっていますが、フィクサーは中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)、後の天智大王(第38代)
大海人皇子は、後の第40代天武天皇(皇后は第41代持統天皇)で、入谷の海人族(国栖人、くずびと)の本拠は吉野。
吉野には『国栖の里』があり、また、天武天皇と奥方の持統天皇が別荘として訪れていた吉野宮(吉野町宮滝、推定地)は縄文時代からの遺跡でもあります。
これらの点を繋げて行くと、大海人皇子をバックアップした入谷の海人族というのは、吉野・国栖の里の人と同系同祖、つまり、縄文血統の人々であったという考察が成り立ちます。
そもそも『大海人皇子』という名そのものが、海人族との強いきずなを物語っています。
吉野は周辺で水銀朱(丹)を産出しますが、近年の考古学的研究では縄文時代(中期、約4000〜3000年前)から水銀朱が採られ利用されていたことがわかって来ました。(例、四国・阿南市、加茂宮ノ前遺跡)
入谷の『入』は「にう」とも読み、つまり「丹」を意味すると伝承されています。
今後の話のためにも、今一度、奥明日香・入谷と吉野町、そして壬申の乱の戦闘地(動線)の関係を見ておきましょう。
大字の地図は「明日香村の大字に伝わるはなし」より。地図の右下南東端に入谷。吉野町に隣接しています。
地図上の『倭京、やまとのみやこ』が飛鳥京あたりでオレンジ線が壬申の乱の動線(山背・近江⇒倭京⇒吉野⇒伊賀⇒美濃)
オレンジ線が大きく湾曲する内側(上側)が入谷のある奥明日香になります。
オレンジ線のメインルートとは別に、山林の中、張り巡らされた『やちまたの道』を、自在に動きまわる縄文血統、海人族の躍動する姿が目に浮かびます。
もちろん海人族ですから、オレンジ線の先・伊勢湾を自在に動き、現在の鈴鹿、津、伊勢あたりと美濃を舟路で素早く行き来していたことは十分に想像できます。