ものづくりとことだまの国

縄文・弥生・古墳時代の謎。古神社、遺跡、古地名を辿り忘れられた記憶、隠された暗号を発掘する。脱線も多くご容赦ください

【日羅公の埋葬地(1)】石碑に書かれた驚きの史実【将軍地蔵尊(大阪市天王寺区上本町)】

長らく大阪に住んでいて、地元の史跡には慣れ親しんでいるものの、それでも見落としていること、見落としていたことがあります。

あまりにも小さな『点』、それは『(歴史として)隠されているから』なのかも知れません。

日羅(にちら)という人物をご存知でしょうか。大阪市内には関連する史跡がいくつかあります。

以前から気になっていたので、手始めに、将軍地蔵尊大阪市天王寺区上本町、勝軍地蔵)にお参りに行ってきました。

名の通り、道中の地蔵堂なのですが、鳥居のない神社にも見える外観です。

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将軍地蔵尊大阪市天王寺区上本町8丁目9、石碑に書かれた小宮町は隣接地)

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日羅の仏化像といわれる地蔵尊

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将軍地蔵尊 石碑

石碑に書かれた驚くべき内容

昭和28年、当時の四天王寺・第百一世管長・出口常順(でぐちじょうじゅん)師の揮毫と、縁起が石碑に書かれていました。

縁起がたいへん面白いので、解説を加えて(カッコ)原文を文字起こし(青文字)しました。

この将軍地蔵尊は、大阪師団創設(第四師団、明治二十年代)の頃、城内東南部杉山より小宮町に移されたが、偶(たまたま)今次の特別都市計畫に伴う街路の整備にかかり、町有志の奇特と地主野村建設株式會社の厚意に依り現地に再建せされたものである。

「城内南東部杉山」とは、大阪城の東側、大阪城公園内の大阪城ホール、太陽の広場、軟式野球場、野外音楽堂などがある一帯のこと。小宮町とはここ、将軍地蔵尊がある所です(大阪市天王寺区小宮町)

御本体は、継体天皇(第26代)の御宇、任那(みまな)国主であった火葦北国造刑部靱部阿利斯登(ひのあしきた・くにのみやつこ・おさかべのゆげいべの・ありしと)公の子、日羅(にちら)公の佛化像と謂(い)われる

「ヲホド王」の名で知られる謎多き継体(けいたい)大王の時代、肥後熊本の国造・アリシトの子が日羅で、その仏様になった姿が、この将軍地蔵尊ですよ、いうことです。

抑(そもそも)日羅公は、生来文武の道に秀で、宣化天皇(第28代)の御代(535~539年)、久しく百済(くだら)に在って高位に上り、日本に同じく服属した韓諸国の保護に當(あた)った。敏達天皇(第30代)十ニ年(583年)、任那の復興に召還されて歸朝し、爾後(それ以来)、国政諮詢(しじゅん、アドバイス)の重任を辱(かたじけの)うした(=国政のアドバイザーになっていただいた)。其献策は、推古天皇(第33代)の冠位制、聖徳太子の十七條憲法孝徳天皇(第36代)の大化新政等に現れ、国史に著名の事績である。公、一度(ひとたび)薨去(こうきょ、位の高い人が亡くなる)となるや、敏達帝、深くその功を嘉し、詔(みことのり)を以って、天満同心町に収葬せしめられた。

この下りには、スゴいことが書かれていますね。

熊本の豪族(国造)の王子が、朝鮮半島百済(くだら)に渡って出世し、敏達(びだつ)王が、同じく半島にあった任那(みまな)の「復興」を要請するため、ここ大阪河内に召還した、という内容です。

(日羅が召還された)583年と言えば、丁未の乱(587)の直前で、聖徳太子はまだ9才。つまり、古墳時代の終末期ということになります。

素直に読むと、任那は敏達王の頃には滅んでいるんですね。この経緯を考察して行くことで、なぜ古代日本(大和朝廷)が朝鮮半島情勢に深く関わっていたのか、特に百済任那との関係を通して、さらに明らかになって行くと思います。

日羅は国政アドバイザー(今風に言うと政策補佐官)となり、そのコンセプトが後の冠位制、十七条憲法大化の改新に影響を与え、そして、日羅は逝去後、天満の同心町に葬られた、と。

ただWikiでは死亡年が帰国した583年になっているので、アドバイザーの期間は一年もなかったことになります。また、同心町は天満宮の北一帯のことで、小宮町に移転してくる前に埋葬地があったとされる大阪城杉山地区とは少し離れています。

また調べる材料が増えました。

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将軍地蔵尊

後年、肥後熊本に移葬の際、その墓所を發祥とした地蔵堂の菩薩像は、神采奕々(しんさいえきえき、輝かしく美しく見える)、極めて古く、公、又は太子(聖徳太子)の作と呼ばれる。其後、日羅公は京都愛宕神社を始め各地に祭られたが、茲(ここ)に安置した尊影は大阪に於て最も由緒深いものである。即ち、往昔、坂上田村麿公が日夜信仰した将軍地蔵こそ日羅、公の權化として今尚、霊験益々あらたかな等身大の石彫座像である。

日羅は後に故郷の熊本に移葬されたとあります。また日羅公の像は京都の愛宕神社のほか、各地に祀られましたが、大阪では将軍地蔵尊の御姿が最も由緒のあるものということです。

今回町篤信家の發願が見事實を結んで新装の淨域に我が将軍地蔵の慈顔を、常世仰ぐこととなった事は、衆人の随喜する所である。将来、ここに朝夕参詣する善男善女が、普くその加護を受けらるる様祈念して、衷心、この竣工を祝福するものである。昭和廾八年(28年)五月 出口常順題 松井孝禎撰并書

覆い屋は平成15年7月に金剛組により造られたんですね(下の絵)。金剛組は日本最古の会社(天王寺区四天王寺さんのそば本社)として有名です。

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覆い屋のなかった平成15年以前の将軍地蔵尊の絵

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