前回・将軍地蔵尊、日羅像(碑は昭和28年、像は制作年不明)
先日、ご紹介した肥後熊本生まれの日羅(にちら)公。
半島の百済(くだら)にわたって、王に次ぐ位・二位達率(だちそち)という大変高い位に出世した人で、
敏達大王(びだつ、第30代)の命令で583年に帰国し、河内の大王の宮に呼ばれ、新羅(しらぎ)に占領された(562年)任那(みまな)の復興策を求められた中で、
(以下は前回記事で紹介しなかった話です。)
『百済が筑紫(ちくし、九州)に侵攻する作戦をひそかに立てている』ことを暴露してしまい、お供の百済の役人、徳爾(とくに)・余奴(よぬ)にその場で切り殺されてしまったといいます。
日羅という人材を欲し、その死を憐れんだ敏達大王は、詔(みことのり)で、いったん 難波小郡西畔丘前(なにわのおごおりのにしのほとりのおかさき) に埋葬されたと伝えられています。
淀川支流、大川、源八橋そば、日羅公の碑(昭和30年)
上の話は、おおむね、日羅公の碑(大阪市北区天満橋2丁目)に書かれている内容です。
『難波小郡西畔丘前』というのが、前回・上本町の碑文に出てきた『天満同心町』、つまりこの碑のあるあたりとされています。
日羅公の碑、碑文(文字起こし)
日羅公は肥後國葦北國造の子で、敏達天皇の御代、久しく百済国に住んで政治の要路にあり、非凡の知勇を内外に知られていた。天皇は公の献策を用いて国勢の伸張を計ろうとせられ、公を召して、帰国せしめられた公は、御諮訽に応えて、民生外交に関し種々方策を献じたが、これを百済に不利として、彼地より隨伴して来た者のために暗殺せられるところとなった。詔によつて、一旦、難波小郡西畔丘前に収葬せられたが、この地はその初葬の地であると言われることに顕彰の事に当られた。日羅公薫續顕彰記念会がさらに戦災による荒廃を修復せられたことは、時節柄、まことに当を得たことと思い、ここに公の事蹟を記してその記念とする。昭和三十年六月二十五日、大阪市長 中井光次書
四天王寺 英霊堂前 古代文字の碑(昭和25年)
四天王寺の北西の門から入って少し進んだところに英霊堂(えいれいどう)があります。
お堂自体は、戦後、昭和二十五年に建てられたものですが、お堂の前に古代文字の碑が、二柱、建てられています。
右の碑文には日羅公の言葉として『救世観音菩薩像の生まれ変わりであり、仏法の法脈を伝える東方日本の王である聖徳太子に敬って礼拝いたします』、
(右)敬礼救世観世音 伝灯東方粟散王(ぞくさんおう、粟のような小さな国の王、※インドや中国などの大きな国と比較した表現)
左の碑文には『聖徳太子の前世である中国の僧慧思禅師が太子として生まれ変わり、その太子が日本仏法開祖として人々に尊い仏教の教えを広め導かれた』と書かれていると、説明板で解説されています。
(左)従於西方来誕生 開演妙法度衆生
将軍地蔵尊(昭和28年)、日羅公の碑(同30年)、古代文字の碑(昭和25年)。
戦後間もない昭和のこの時代、どうやら、日羅公の功績を見直す動きが活発だったようです。
ただ、多分に信仰にもとづく歴史解釈が含まれていますので、これらで史実を考えることには慎重であるべきだと思います。
特に、英霊堂前の古代文字の碑には日羅公が聖徳太子に帰依するかのような言葉が書かれていますが、583年に亡くなった人が、当時9才の太子の仏法に心服するというのは、ちょっと現実的ではないように思います。
『難波小郡西畔丘前』とはどこだったのか?
そのあたりは、ひとまず置いておいて、さて、難波小郡西畔丘前(なにわのおごおりのにしのほとりのおかさき) とはどこだったのでしょうか。
もちろん記事にする以上、私は天満同心町ではないと推定(妄想)しています。
ひとつの手がかりとして、移設されてきたとは言え、将軍地蔵尊(天王寺区上本町)と四天王寺(天王寺区四天王寺町)は近く、また、日羅公の死を惜しんだとされる敏達大王の河内の宮が五条宮(天王寺区真法院町)にあったとされています。
舞台配置が整いすぎている感じもありますが、『難波小郡西畔丘前』は現在の大阪市天王寺区のどこか、四天王寺に縁の深い場所ではないかと考えるようになっています。(続きます)