前回の続きです。
『西畔丘前(西のほとりの丘の先っちょ)』は茶臼山古墳と書きましたが、では『難波小郡』とはどこなのでしょうか。
もちろん、古代に上町半島だった現在の大阪市内に小郡という地名は見当たりませんから、考察する必要があります。
難波小郡(なにわのおごおり)はどこか?
まずは、今から約20年前、難波宮跡の発掘調査の現地説明会資料から抜粋しました(画像の資料名で検索するとネットで読めます)
1、5世紀後半:大倉庫群がつくられ、以降、難波は外交・西国経営の要地となり、大郡・小郡・三韓館・難波屯倉などがおかれた
と紹介されています。補足しますと、
西暦400年代後半に大倉庫群が造られて以降、難波(上町半島)がそれまでの太宰府(福岡県太宰府市)に代わり「外交・西国経営の要地」として、大郡と小郡の2つの行政区分に分けられたということです。
横の年表では、仏教公伝(538)から書かれているように、事実上、欽明大王(第29代、広庭、第26代継体大王の息子)、その息子の敏達大王(第30代、訳語田)の時代に、難波(上町半島)の役割が大きくなり、行政区としての『郡、こおり』が制定され整えられていきました。
なお、日羅公が敏達大王に召還され(小郡の)難波館で暗殺されたのは583年。
それまで外国(主に三韓:百済、新羅、高麗)からの迎賓と国防を担っていた太宰府から、難波に迎賓館(三韓館?)を移すようにアドバイスしたのが日羅公だったいう伝承がありますが、それと繋がります。
先日紹介した将軍地蔵尊の碑(四天王寺官長のサイン(揮毫)入り)にも『その献策は、推古天皇(第33代)の冠位制、聖徳太子の十七條憲法、孝徳天皇(第36代)の大化新政等に現れ』と書かれていますが、つまり、日羅公は、当時中国の影響を受けていた百済(くだら)の官制を(国のNo2達卒、だちそちの立場で)紹介することで、その後の日本の中央集権化の方向性に大きな影響を与えたものと考えられます。
2、大化1年:難波に都を移し、この間、子代離宮(こしろのかりみや)・蟇蝦行宮(かわずのかりみや)・小郡宮(おごおりのみや)・味経宮(あじふのみや)・大郡宮(おおごおりのみや)などの名が見える
大化1年というと、日本史では乙巳(いっし)の変(645)に始まる『大化の改新』がスタートした頃の状況ですね。
面白いのは、大王(天皇)になったばかりの孝徳大王(第36代、軽)が、飛鳥ではなく、難波(河内)を転々としている点です。
そもそも宮を転々とするのは、内なる敵から身を守ることが第一の目的と考えられます。
このあたり、記紀(古事記、日本書記)では伝えられない『事件の真相』がニオいませんか。(乙巳の変=中大兄皇子・中臣鎌足らが蘇我入鹿を宮中で暗殺。蘇我氏(蘇我宗家)を滅ぼした)
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訂正バージョンをアップしました
訂正バージョン(20200608)
以下の内容は、その後の考察により誤りと判断しました。一度アップしましたので記録として残しておきます。
難波の大郡と小郡の推定(古代妄想レベル:★★=MEDIUM)
浪華古図に、難波の大郡と小郡をざっくり描いてみました。もちろん開物が考えたものです。基本的には、4世紀の仁徳大王(第16代、大鷦鷯、おおさざぎ)の高津宮エリア(小郡)と、飛鳥時代の難波宮エリア(大郡)で分けてみました。なぜなら、難波宮は北東から淀川、南東から大和川が流入、瀬戸内海に繋がる、難波屯倉も置かれた交通(海運、河運、陸運)の要衝で、ゆえに新しいクニ造りの「外交・西国経営の要地」、つまり、もうひとつの国の中心地=大郡、という意味合いが強かったと思うからです。
浪華古図に描かれている高津宮は、現在の東高津宮(大阪市天王寺区東高津町)がもともと鎮座していたところ、近鉄上本町駅あたりだったと考えています(東高津宮の由緒より)(何度か紹介している高津宮(高津神社、古くは仁徳天皇社)は秀吉公の時代に現在の中央区高津町、古図の高津宮の西端あたりに遷座)
郡を分けるのが、市内中心を東西に走る『空堀、からほり』のライン。ちょうど秀吉公時代の大阪城三の丸はこのあたりまで広がっていました。この東西ライン上には、以前紹介した古代に『三韓坂』と言われたあたりの縁切寺・円珠庵(仁徳天皇社があったところ)、真田丸跡、真田山陸軍墓地(古代の古墳跡?)などがあります。古墳はクニの境(さかい)、郡であれば、その辺縁部に造営されます。真田丸は古墳を利用して造営されたと考えています。