御祭神
菅原道真公(学問の神様)、天穂日命(あめのほひのみこと、日本神話:アマテラスの御子とされる)、覚寿尼公(道真公のおば)
神社の御由緒や歴史について詳しくは、ホームページをご覧いただくとして、
菅原道真公は、埴輪(はにわ)造りの土師(はじ)氏の子孫だったんですね
知りませんでした。
近鉄南大阪線・始発の阿部野橋から準急で4駅目(約20分)、道明寺(どうみょうじ)駅で降りて、こじんまりした商店街を抜けた、こんもりした緑のあたりが道明寺天満宮さん。
入口の石段を上がったところに「土師窯跡」の碑。昭和十七年十二月八日の日付がありますから、太平洋戦争の開戦二周年を記念して建てられたもののようです。
土師窯跡(昭和十七年十二月八日 大阪陶磁器同業組合)
文字起こし&現代訳)日本書紀によると、第11代垂仁天皇の時に、菅原道真公の祖先の野見宿祢(のみのすくね)が土偶で(古墳の)殉死に代えることを進言し、大いに賞賛され、その功績によって土部職に任じられ、土師臣(はじのおみ)の名とともに、作業場(鍛地)を与えられた。
それがこの所であり、江談抄にいうところの土部氏の本拠地にであり、土偶、つまり、埴輪を造った窯跡で、我が国の窯業発祥の地であります(以下割愛)
前半は日本書紀に書かれたよく知られた話です。
神社の御由緒にも、道真公(845~903)の祖が、野見宿祢(のみのすくね)と書かれています。
土師氏は、土師神社を創建し、遠祖の天穂日命を祀っていましたが、仏教の伝来で、聖徳太子の発願で、子孫の土師連八嶋(はじのむらじやしま)が邸宅を提供し、土師寺となりました。
後年、土師氏は『菅原』へと改姓し、子孫に道真公が現れます。土師寺におばの覚寿尼公が住んでいたことから、道真公はたびたび訪れたそうです。
道真公57才、従二位右大臣にまで進んだものの、大宰府権帥(ごんのそち)として筑紫に赴く時(いわゆる左遷)、おばのいる道明寺への訪問を許され、淀川下りの時に、
世につれて 浪速入江もにごるなり 道明けらけき 寺ぞこひしき
時代とともに、浪速の入江の水も濁るという嘆き。若き頃を懐かしむ心情ですね。
水の流れは、時に、戻らない時間の流れを感じさせます。
覚寿尼公との別れでは、
鳴けばこそ 別れも憂けれ 鶏の音の なからん里の 暁もかな
と詠み、早朝、見送る人も少なく、西海へ戻らぬ旅に出たのでしょうか。
土師神社はその後、道真公の号『道明』から道明寺天満宮となりました。
明治の神仏分離で境内の土師尼寺は、天満宮の南の境外に移転し、今は道明寺として続いています。
次回は、境内社の土師神社について。