前回記事
前回記事で紹介した野中寺(やちゅうじ、大阪府羽曳野市野々上)に伝えられる金銅弥勒菩薩半跏像(国指定重要文化財)。
台座に刻まれたこの仏様の由来銘文の中に『中宮天皇』という日本正史では伝えられない天皇の名があることを紹介しました。
これを考えるのに、この弥勒菩薩半跏像が制作されたと考えられる666年前後の歴代天皇と、主要な登場人物をマッピングしてみました。
(関連資料とWikiを参考にしました。以下、当ブログでは第40代天武天皇の前、39代までは大王・おおきみと呼称しています。また区別のため女性の大王は女帝としています)
飛鳥時代の有名どころが続々と登場しています。
大王としての在位期間もわかるようにしておきました。
斉明(皇極)女帝は、舒明大王とは連れ子で再婚だったんですね。古代でもこんなことがあるなんてビックリです。
この想像以上にしたたかな女帝は、政治力と、おそらく持ち前の霊力(神威)で二度、大王に就き、飛鳥時代の『ど真ん中』を築きました。
さて、孝徳大王。斉明(皇極)女帝のきょうだい。
一言でいって、この大王の動きは怪しげです。
乙巳の変(645、大化の改新の始まりとされる)の後、実姉の皇極(斉明)女帝から譲位され、大王になりました。
にもかかわらず、この古代の一大政治事件の主役でもなく、そのうえ、難波宮(難波長柄豊碕宮)に落ち着くまで、子代離宮(このしろかりみや)、蝦蟇行宮(かわずのかりみや)、小郡宮(おごおりのみや)、味経宮(あじふのみや)、大郡宮(おおごおりのみや)を転々とします。
いずれも難波の地にありましたら、飛鳥から離れて『何から逃げ回って』いたんでしょうね。
で、孝徳大王に連れられて?、同じく転々としたのが皇后・間人皇女(はしひとのひめみこ)です。
間人皇女の「きょうだい」が、歴史的事件・乙巳の変(いっしのへん、蘇我入鹿の暗殺)から大化の改新に至る主役のひとり、後の天智大王、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)です。(兄妹か姉弟か確認していませんので「きょうだい」と書いています。)
怪しいのは、旦那さんの孝徳大王が亡くなった(654年)後、655年から母親の斉明(皇極)女帝が再登板したことです。
それに、斉明女帝が亡くなって(661年)後、次の天智大王が就任するまで、7年間の空位があるのも気になります。
南北朝ならぬ。飛鳥と難波の東西朝?★★★
古代妄想レベル:★★★=MAX ★★=MEDIUM ★=MIN or A LITTLE
ふつう、孝徳大王が亡くなった時点で、次の大王を指名する権限は、皇后・間人皇女が持っていると考えるのが自然ですよね。
(敏達大王の皇后だった豊御食炊屋姫・とよみけかしきやひめ、がそうで、紆余曲折の後、推古女帝として大王になりましたから。)
彼女は斉明女帝の娘ですし、中大兄皇子のきょうだい。血筋は申し分ありません。
もし、皇后・間人皇女が難波宮で孝徳大王に成り代わって王権を握っていたとしたら・・・
このあたりが、古代上町半島にあった「難波王朝説」「河内王朝説」のおおよその骨格になるのでしょうか。
少し長くなりましたので、次回に続けます。
なお、万葉集に名前が残る『中皇命』は女性で、「皇、すめら」と「命、みこと」の大王級の名から、斉明女帝説と間人皇女説があります。