まとめ
メスリ山古墳(前方後円墳)の石室には日本最大の特殊円筒埴輪、玉杖、武力のシンボル・多数の銅矢じりが納められていました。桜井茶臼山とともに、ヤマト創世記の大王級古墳だったと考えられます。墳丘を御神体とした八坂神社にもお参り
目次
要約
奈良盆地の東南部 #三輪山と #鳥見山 の間 #初瀬川 が #大和川 に変わるあたりは #古代ヤマト のクニの境。#箸墓古墳 を始め二百メートル超の巨大な #前方後円墳 が六基並んでいます。二つの聖なる山を越えた #宇陀・吉野 は #水銀朱(#辰砂)の採れる #神仙世界 でした
本文
奈良盆地の南東部(三輪山、鳥見山周辺)には、前期古墳で、墳丘長が200メートル以上の巨大な前方後円墳は6基あります。
三輪山周辺の巨大前方後円墳・4基
前期古墳とは、古墳時代(西暦250年~)のはじめの約百年間に造られた古墳のことで、埴輪(円筒器台を除く)がないのが特徴です。
有名なのが、三輪山の西の最古とされる箸墓古墳(はしはか、倭迹迹日百襲姫命?、やまとととびももそひめのみこと)で、古代史ファンの間ではヒミコの墓ではないかとされています。
姫御子の名に「トビ」の音が入っているのが気になります。
それに続く時代の古墳が、三輪山の北西の、行燈山古墳(あんどんやま、崇神大王?)、渋谷向山古墳(しぶたにむこうやま、景行大王?)、西殿塚古墳(継体大王皇后・手白香皇女?)。
いずれも宮内庁が管理する大王(皇后)クラスの古墳、つまり陵墓として治定(じじょう)されているがゆえに考古学的な調査が行われず、異論もあり、実際にだれが埋葬されているのか、確実なことはわかりません。
例えば、西殿塚古墳は、継体大王皇后・手白香皇女と治定されていますが、であれば、継体大王期は西暦530年ごろで、考古学的に分類される前期古墳期(西暦300年前後)と、時期がまったく合いません。
鳥見山(とみさん)周辺の2基
鳥見山周辺の桜井茶臼山古墳とメスリ山古墳の2基は、先の4基(オオヤマト古墳群)よりやや遅れて築造された前期の巨大古墳ですが、宮内庁には治定されず、しかしその規模からみて、歴代天皇の名には残らない謎の大王(女王)級の古墳の可能性があります。
橿原考古学研究所(橿考研)は、1949~1950年、2009年の2回、桜井茶臼山古墳の発掘調査(後円部)を行なっています。
『墳頂の方形壇の下に設けられた大規模な竪穴式石室は過去に盗掘を受けていたものの、銅鏡片、玉類、玉杖(ぎょくじょう)・玉葉(ぎょくよう)などの石製品、鉄鏃(てつぞく)・鉄刀などの武器類、工具類など多様な副葬品が出土した』
破片を数えると日本最多の81枚の大量の銅鏡とともに、勾玉類や鉄刀などの『三種の神器』の要素が揃っていましたが、実際にどのようなものが、どれぐらいの規模で埋納されていたのかは、盗掘されているため、今となっては不明です。
真っ赤な石室(外山(とび)の桜井茶臼山古墳)
石室の規模は長辺(南北)が11.7m、短辺(東西)が9.2mの大きなものですが、その壁面に水銀朱がくまなく塗られていました。
宇陀・吉野の水銀朱と神仙世界
水銀朱は九州、四国、本州西半の中央構造線に沿って、辰砂(しんしゃ、赤色硫化水銀)として採れ、奈良県では写真地図の鳥見山の南方8キロを東西に走る峡谷地帯の宇陀~吉野が一大産地でした。
水銀朱は、黒(=暗い、あの世)に対する赤(=明るい、この世)で、おそらく死者復活の意味合いで、縄文以来、埋葬祭祀に利用されていました。
後の時代(おそらく弥生晩期~古墳時代前期)に、大陸伝来の道教思想と結びつき『不老不死の仙薬』とされるようになったと考えられます。
そのような時代に、水銀朱を大きな石室一面に塗り込んでいる様式や意味、それに埋納品(三種の神器)を考えると、桜井茶臼山の巨大古墳には、当時の大権力の長(大王・女王級)が葬られていたことを示しています。