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李登輝元総統のご逝去に哀悼の意を表します
台湾、民主主義の父、李登輝元総統が2020年7月30日、お亡くなりになられました。
謹んで哀悼の意を表します。
司馬遼太郎さんと同じ大正十二年(1923年)生まれ。
ともに22才で太平洋戦争の終戦を迎えました。
その後、司馬さんは日本を代表する歴史小説家、李さんは台湾の民主主義のリーダーとして、それぞれに違う人生を歩みますが、同世代の深い友情は生涯、変わりませんでした。
短いエッセイを書いた司馬さんは、2年後の平成8年2月に生涯を閉じられましたので、台湾へ最後の旅だったのかも知れません。
三度目の台湾(抜粋)(平成六年三月)*1
月末に台湾にきた。この二年で三度も台湾にきたことになる。とくに用があったわけでなく・・・
最初に来た時、「どうしていままで台湾に来なかったのですか」と問われて返事にこまり、江戸時代の川柳を引用した。その時代、六部(ろくぶ)という遍歴者がいた。六部が老いると、ふるさとに寄ってみたくなる。「ふるさとへまわる六部の気の弱り」そういうと、二、三人が大笑いしてくれたほど、この地の年配の人たちには高度な日本語の理解者が多い。俳人も歌人もいる。
「私は二十二歳まで日本人だったんです」と七十一歳の李登輝(り・とうき)総統自身がそういう。
六十以上の人達にNHK衛星放送を通じて大相撲ファンが多く、それも舞の海、旭道山、智ノ花という柔よく剛を制すといった小兵力士に肩入れする人がすくなくない。皇室ファンもいる。高砂族(山地同胞)の人達の多くは、いまだに日本語を使う生活をしている。
だからどうだというのではなく、この年齢層があと十年で希少になるだろうとおもうと、失われて行く私自身とかれらとの”同郷”を、たがいが元気なうちに見確かめておきたいというだけのことである。
・・・この地上にタイワニーズ(台湾人)という、中国語を使いながら中国人の分類に入りにくく、日本文化を触媒としてうまれたたくさんの人達がいるということを、地球知識の一つとして手ざわりでふれておきたいために三度目の台湾旅行をしている。むしろ、失われてゆく時への淋しさと、未来への不安とを感じつつの旅だが。
ふるさとへまわる六部の気の弱り
近代以降、台湾と日本の関係は、決して平たんな道のりではありませんでしたが、司馬さんが書かれているように、戦後は李登輝さんやその上の世代の「人を通じた」交流があり、今に続いています。
日本列島は南北に長い島嶼(とうしょ)で構成され、はるか大昔、南方から、台湾島から人々がわたってきたのは定説のひとつ。
Wikiで紹介されているような原住民族の文化・風俗は、例えば、縄文と共通するところが多いのです。
長い長い海人交流の歴史。もちろん、人類最長の部類でしょう。
司馬さんがエッセイで書かれた川柳。案外、的を得ているからお互いに響き合うのかも知れません。