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まとめ
明日香村の #上宮寺 から石舞台古墳を眺望する先に #用明天皇 の #池辺大宮(#島庄遺跡)。さらにその先に #太子が生まれた #仏頭山 #橘寺。この位置関係は石舞台の主が誰であるかを示唆しています。池辺大宮は #法隆寺 #薬師如来像 #光背銘文 にだけあらわれる幻の宮殿
本文
古代妄想レベル:★★★=MAX ★★=MEDIUM ★=MIN or A LITTLE
先日、明日香村の石舞台古墳近くの『謎のトライアングル』、方形の池を紹介しました。
よかったら、もう少し古代妄想にお付き合いください。笑
上宮寺(上居)~石舞台古墳(島庄)のラインの先の島庄遺跡
明日香村上居(じょうご)の上宮寺(じょうぐうじ)には『青年の聖徳太子が馬でよく上居を走り回られた』という言い伝えが残っています。
この伝承から私は『仏生山 上宮皇院』と称される上宮寺が、聖徳太子が若いころに住まいした『上宮、うえのみや、じょうぐう』だったと妄想しています(聖徳太子の誕生した橘寺は『仏頭山 上宮皇院 菩提寺』と並び称される)
そして上宮寺の高台から石舞台古墳、そしてその先の駐車場あたりの島庄遺跡につらなるパースペクティブ(視点、視野)に、さらに妄想が膨らみます。
縄文以来の一等地だった島庄遺跡
石舞台古墳の観光駐車場の地下から、飛鳥時代ごろの宮殿跡のほか、それ以前、縄文時代以降の遺構が何層も検出されています。
島庄遺跡一帯は縄文以来の一等地だった
棚田の斜面でわかりますが、さらに飛鳥川(西)に挟まれた所は、安全でキレイな水の確保に苦労しなかったからです。
これほどの好立地、古墳晩期~飛鳥時代の有力豪族や大王の宮も含めて、複数の時代の建物跡が検出されるのは当然でしょう。
用明大王の池辺大宮(いけのべのおおみや)
島庄遺跡の変遷を追うのは大変ですし、そこは考古学にお任せするとして、飛鳥時代ごろ・用明大王の時代の話に絞ります。
『池辺大宮』は記紀には登場しません。
真贋論争はありますが、私はこの後背銘文は薬師如来像を造った大陸渡来の仏師が彫った本物と確信しています。
なぜなら、偽物を造るなら、バレないようにわかりやすい書き方をするはずだからです。ところが銘文は、当時の渡来人にしかできない表現で、かつ、解釈(解読)が必要な内容で、結果たいへん分かりにくい内容になっているのが大きな理由です。
(銘文文字と内容は下記リンク先でご覧ください)
● 用明大王は池辺大宮で天下を治めていた(執政していた)
● 用明大王は仏師から(当時まだ日本では使われていなかった)『天皇』と称されるほど尊敬されていた
● 天皇という言葉は実は『道教的』(伝来当初の仏教は道教との習合信仰だった)※この点は別の機会に
● 用明大王は渡来人の宗教を信仰した「はじめての」大王で、それが尊称された理由 ※日本書紀では蘇我馬子に書き換えられている。隠された史実
● 用明大王の息子(聖徳太子)は(当時としては外来風に同じく)『太子』と尊称された
● つまり太子とされる人物(上宮皇子、日本史では厩戸皇子)は実在した
他にもあるのですが、ここでは関係のあるものだけ、書き出しました。
さて、後背銘文が本物として、池辺大宮(いけのべのおおみや)が島庄遺跡にあったとすると。。。
石舞台古墳は用明大王の墓だった!?
石舞台古墳は用明大王の墓だった可能性が高まります。
明日香村の伝承どおり、上宮寺(じょうぐうじ)が太子の上宮なら、父上の『墓』と『宮』を一目で見ることができることに、実に奥深い意味があると考えています。ついでに言うと、自身が誕生した橘寺(仏頭山)も眺めることができます。
そしてこの妄想は、地図に見える都塚古墳とセットで考えると まったくあり得ない話ではなくなる のです。(次回)
※石舞台古墳は、蘇我馬子の墓とするのが(何となく)定説になってしまっていますが、そもそも『飛鳥の蘇我氏(馬子-蝦夷-入鹿の三代)』が実在した確実な証拠(物証)は何ひとつありません(寺伝等は後世にいくらでも創作できます)
※飛鳥寺の入鹿の首塚という(何となくの)話に対して、地元では鎌倉時代の尼さんの墓と伝承されています。そもそも五輪塔様式は飛鳥時代には存在しなかったため、入鹿の首塚という話自体あり得ません