まとめ
幼い頃に自分たちを守るべき母を亡くした幼い姉弟。大伯皇女と大津皇子はお互いに大切な家族。運命は二人をあの世とこの世に引き裂きます。姉は約束どおり、自分が居るところが見える二上山の麓に弟を葬った。。。のでしょうか
目次
- ももづたふ 磐余の池に鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ
- 大津皇子の墓(二上山・雄岳山頂)
- 鳥谷口古墳(とりたにぐちこふん。奈良県葛城市染野)
- 鳥谷口古墳からの眺望
- ひそかな二人だけの会話★★★
- 日本の詩人の詩による6つの歌曲
本文
(昨日の続きです)
ももづたふ 磐余の池に鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ
(大津皇子(おおつのみこ)、万葉集巻3-416)※ももづたふ=磐余の枕詞、磐余の池=吉備池、雲隠り=死んで行くこと、と一般的に解釈されます
磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を見るのも今日限りで、私は死んでゆくのだろう
この詩は辞世の句で「大津皇子の死を被(たま)はりし時、磐余の池の堤にして涙を流して作らす御歌一首」と注釈がつけられています。
無念だったろうと思う一方、まるでこの日を予見していたかのような 諦観 を感じます。
大津皇子の墓(二上山・雄岳山頂)
反逆の嫌疑をかけられ、自害させられた大津皇子の亡骸は二上山に葬られます(686年。享年24才)
二上山の雄岳山頂付近には、宮内庁が比定する大津皇子の墓があります。
しかし、ここは後に移葬された墓で、はじめに埋葬されたのが鳥谷口古墳(方墳)だとも云われています。
鳥谷口古墳(とりたにぐちこふん。奈良県葛城市染野)
1983年、大池のそばで工事中に偶然発見され、周辺地名から鳥谷口古墳と名付けられました。
二上山の凝灰岩を使用した石棺が見えますが、内径が幅約0.6m、長さ1.58m、高さ0.7mという小さなもの。また開口部(横口)も小さく『大人一人の遺骸を石棺内におさめることは困難で、したがって火葬骨または改葬骨が納められていたと考えられる』と葛城市歴史博物館の資料に書かれています。
鳥谷口古墳からの眺望
鳥谷口古墳のひとつの特徴は、周辺に他の古墳がないことです。
万葉集などの史料を見ても、二上山に葬られたのは大津皇子ぐらいしかいません。しかし副葬品も含めて、考古学的な証拠はひとつもありません。
ひそかな二人だけの会話★★★
古代妄想レベル:★★★=MAX ★★=MEDIUM ★=MIN or A LITTLE
私はただの古代妄想ですから、資料を読んで、とりあえず気になる現場に足を運んで妄想を膨らませます。
墳丘から大和盆地をながめて、ただただ驚きました。
特徴的な台形の畝傍山が見えます。
畝傍山の向こうが磐余(いわれ)。眺望の中に、姉の大伯皇女(おおくのひめみこ)が弟を想い詩を詠んだ吉備池があるはずです。
姉弟がこの世とあの世の「サカイ」を超えて対面する。
呼応する景色の哀れさを想うと胸が熱くなりました。
墳丘に立ち二人の詩を詠んでいますと、
「姉ちゃん。もし俺が死んだら、あそこに見える聖なる山に埋めてくれよ」
「できれば俺の方から、姉ちゃんの居るところ(吉備池)が見えるといいなぁ」
いつか姉弟が交わした、二人だけの、ひそやかな会話が聞こえる気がしました。
日本の詩人の詩による6つの歌曲
ロシアの作曲家、ショスタコーヴィチが、大津皇子の辞世の句を歌曲(第2番・自害の前に)にしていました(この方面は詳しくありません。記事を書いていて知りました)
(歌詞はコピペです。)
木の葉は舞い散り
濃い霧が湖を覆っている
野生の鴨は驚いたように鳴いている
この聖なる磐余(いわれ)の池に
陰鬱な夢が我が頭を翳らせ
我が胸は重い
一年の後、再び鴨の鳴き声が響こうとも
もはや私は聞くことはないのだ