ものづくりとことだまの国

縄文・弥生・古墳時代の謎。古神社、遺跡、古地名を辿り忘れられた記憶、隠された暗号を発掘する。脱線も多くご容赦ください

【津軽 高山稲荷神社】美しい千本鳥居と最果ての赤穂浪士の物語

はじめに

つがる市の木造(きづくり)の西は #日本海。強い海風から街や田畑を守る南北に長い #屏風山防風林 の中に #高山稲荷神社 が鎮座しています(10月13日参拝)。#千本鳥居 の美しい神社でした #赤穂浪士

目次

本文

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高山稲荷神社 大鳥居

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大鳥居横の屏風山防風林の案内板

高山稲荷神社

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御祭神:宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)、佐田彦命(さたひこのみこと)、大宮能売命(おおみやのめのみこと)

(佐田彦命はサルタヒコ・猿田彦。大宮能売命はアマノウズメ・天鈿女と同一神とされることもあります。総本社の京都の伏見稲荷大社では宇迦之御魂大神は下座(中央座)、佐田彦神は中社(北座)、大宮能売大神は上社(南座)に配神されています。)

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高山稲荷神社(つがる市牛潟町鷲野沢147−1)境内図

大きな境内は起伏に富んでおり、大鳥居から左に折れて石段をのぼった丘(高山)に、高山稲荷社と山王日吉神社(高山山王稲荷神社)など、

その丘の石段を下った向こうに池の中の浮島の龍神宮、そこから名所の千本鳥居をくぐって斜面をのぼり、最奥にアマテラスを祀る神明社が鎮座しています。

境内 高山の丘(高山稲荷神社、高山稲荷三王神社)

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高山稲荷神社 境内 高山への石段

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石段下のお稲荷さん

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石段をのぼった所にもお稲荷さん

さらにもう一度石段をのぼり、高山稲荷神社。

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高山稲荷神社

当社は日本海から三百メートルぐらいの丘にあり、たしかに参拝時は穏やかな日でしたが、海鳴りの音はせず、海風も感じませんでした。防風林の効果は大したものです。

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高山の丘から日本海

御由緒には『1430年ごろ、高山に山王日吉神社遷座してきた。さらに、江戸期・元禄時代(1700年ごろ)の赤穂藩お取りつぶしの際、赤穂城内に祀っていた稲荷大神を、藩士・寺坂三五郎が流浪の果て、弘前に遷し、城下で醸造業「赤穂屋」を営んだ。後にその子孫が渡島(北海道)に移住する際、高山に稲荷大神を遷し、江戸時代の稲荷信仰の隆盛とともに稲荷神社が繁栄し、元々の山王神社が後退した』と書かれています。

江戸期の稲荷信仰の歴史と、大小含めて全国に稲荷社が多い理由が、垣間見えますね。

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山王日吉神社(山王稲荷神社)

境内 龍神

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浮島に鎮座する龍神

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龍神

美しい千本鳥居

津軽の観光名所のひとつです。

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高山稲荷神社 千本鳥居

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高山稲荷神社 千本鳥居

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高山稲荷神社 千本鳥居

丘の向こうに見えるのは風力発電の大きなプロペラ(去年は下まで行きました)。湿原の中に、巨大なプロペラが何本も並んでいます。

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神明社

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神明社の丘から千本鳥居

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高山稲荷神社 千本鳥居

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神明社奥にずらりとならんだ奉納されたお稲荷さんの石造

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パノラマ写真

赤穂浪士・寺坂三五郎のこと

記事末の由緒の中に『寺坂三五郎』の名をみて「おやっ!?」

赤穂討ち入り浪士の唯一の生き残り、寺坂吉右衛門。地元大阪には、赤穂浅野家の菩提寺で「全浪士の切腹後、足軽で一人生き残った寺坂吉右衛門(信行)が四十七士の遺髪、遺爪、鎖かたびらに銀十両を添えて建碑を当寺に依頼した」と伝えられる吉祥寺(天王寺区)がありますが、高山稲荷の寺坂三五郎の話は似ています。

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改名して同一人物かも。吉右衛門が大坂から消えた後、遠く津軽鯵ヶ沢)に移り住んだのかも知れません。そしてその子孫が北海道(渡島)に。

歴史の山道(やちまた)は、時として、意外な小道につながっています。

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由緒(文字起こし)

【 】はホームページ表記。渡島は北海道南部。古くから津軽では北海道のことを「お島」つまり「神聖な島」と考えていたのかもしれません

当社の御創建の年代は詳らかではないが、鎌倉から室町にかけて此のあたりを統治していた豪族安東(藤)氏の創建と伝えられる。江戸時代の古地図には、高山の地は三王(山王)坊山と記されており、当社の境内社である三王神社御創建の社伝には、十三湊(とさみなと)東方に山王日吉神社【山王坊日吉神社】を中心に十三宗寺が建ち並ぶ一大霊場があり、安東(藤)氏の祈願所として栄えるも一四四三年(嘉吉三)[または一四三二年(永享四)]頃に南部勢の焼き討ちにより焼失。この時、山王大神さまが黄金の光を放って流れ星のように高山の聖地に降り鎮まれた、と伝えられる。稲荷神社創建の社伝には、江戸時代の元禄十四年(一七〇一年)播磨国(はりまのくに)赤穂藩浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)の江戸城中での刃傷事件による藩取りつぶしの際、赤穂城内に祀っていた稲荷大神の御霊代を藩士寺坂三五郎 が奉戴し、流浪の果て津軽弘前城下に萬し、その後鯵ヶ沢に移り住み「赤穂屋」と号し醸造業を営み栄える。その子孫が渡島【お島】に移住するにあたり、この高山の霊地に祀れとのお告げにより遷し祀った、と伝えられる。稲荷創建の社伝は他にも諸説あるが、何れも江戸時代に入ってからのことである。これらを総合して考えると、元々は三王神社が祀られ、その後江戸時代に稲荷神社が創建され、江戸時代の稲荷信仰の隆盛とともに稲荷神社が繁栄し、元々の山王神社が後退したものと考えられる

一年前。津軽の晩秋(2019年11月上旬)

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