はじめに
多賀城跡からほど近い所に鎮座する #荒脛巾神社。特殊な構造の社で祭壇が二つ。手前には旅や移動の祈願成就にたくさんの靴が奉納されていました。奥の祭壇には #道祖伸 の扁額。#アラハバキ は謎の多い古い信仰。#荒神信仰 とも関係がありそうです
目次
本文
仙台市から多賀城市へ、金華山道沿いに「あらはばき」の道標が立った小さな道があり、入って行くと小高い丘の手前に赤い鳥居が見えます。
荒脛巾神社(宮城県多賀城市市川伊保石44)
御祭神:荒脛巾神(あらはばきのかみ)
平安時代、蝦夷(えみし)との戦いの最前線となった多賀城跡からそれほど遠くないところに荒脛巾神社が鎮座しています(10月17日参拝)
創建は不明ですが、江戸期の一帯の史料には、塩竈神社(しおがまじんじゃ)の末社の一つとして記載されているそうです。
説明板は記事末に文字起こししています。
鳥居をくぐって正面に二つの社。左側が荒脛巾神社。右側は養蚕(ようさん)神社。
「脛巾(はばき)とは、脛(すね)に巻き付ける布のことで、かつては祈願成就のために奉納された脛巾がたくさん納められていた」とのこと
現在は、脛巾にかわり、たくさんの靴が奉納されています。
この神社の面白いところは、荒脛巾神社の扁額がかけられた祭壇の奥にもうひとつ、「道祖神」の扁額がかかった祭壇があることです。
奥に置かれていたのは男性のシンボル。わざわざ隠すようにされていますので、意を汲んで、加工してアップしておきます。
道祖神はいわゆる男女一対(子孫繁栄)のふるくからの素朴な信仰で、それが、アラハバキ信仰と何かの関係があることを示すスタイルであることに驚きました。
養蚕(ようさん)神社
「病(やまい)の根を切る」という信仰から鋏(はさみ)がたくさん奉納されています。
養蚕が、なぜ病の根を切ることと関係があるのか、まだよくわかりませんのでアップだけ。笑
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勉強不足で、この二社の組み合わせがよくわかりませんが、目をひいたのが、社の間に建てられた「二荒神社」の碑。
荒脛巾と養蚕を指して「二つの荒神社」と解釈できそうです。今後、そういう考え方を頭に入れて、荒神さんをまわってみることにします。
太子堂
二社の少し左奥にあるのが太子堂。そばに聖徳太子の碑が建てられています。
こちらも建立の経緯について、ヤマト政権が支配した多賀城の近くにあることと関係ありそうですが、今のところよくわかりません。
荒脛巾神社 説明板(文字起こし)
多賀城市市川に鎮座する荒脛巾神社は、足の神様と知られており、旅の安全を祈願する人々によって厚く信仰されました。建立年月日は不明ですが、安永三年(1774)に作成された市川村の風土記には、塩竈神社(しおがまじんじゃ)の末社の一つとして記載されており、仙台藩主伊達氏も社領を寄進して保護していました。社名にある脛巾(はばき)とは、旅に出るときに脛(すね)に巻き付ける布のことであり、かつては祈願成就の際に奉納された脛巾が多数納められていました。現在は足に限らず、腰から下の病気にも効き目があるとして、性病や婦人病に悩む人々の信仰も集めています。社殿の左手には太子堂、右手には養蚕神社(ようさんじんじゃ)があり、病の根を切るという信仰から鋏(はさみ)が多数奉納されています。平成20年10月、多賀城市教育委員会
脛巾(はばき)について
神社の説明板には「旅に出る時に脛(すね)に巻き付ける布」と書かれていますが、少し補足しておきます。
北日本では、旅装だけでなく、日常的な農作業や狩猟にも「ハバキ」が使われていました。
ハバキを身に付けているのではないかとも云われる、ある土偶とその様式。これについてはいずれ整理できてから。