はじめに
講堂-金堂-五重塔-仁王門が南北に並ぶ #四天王寺伽藍。真北ではなく西に約3度傾いた配置から #推古天皇 #太陽信仰 を融合した #聖徳太子 #転法輪(が説くところの中道)の創意工夫が見えてきます
目次
本文
四天王寺伽藍の秘密
以前、四天王寺さんの伽藍は、転法輪石と石鳥居の方位を基準に設計されていることを紹介しました。
春分と秋分の太陽は石鳥居の真ん中に落ちるので、つまり、四天王寺伽藍は春分・秋分の日没方向を基準に配置されています。
推古女帝の古神道(太陽祭祀)
別称は豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)、諱(いみな)は額田部(ぬかたべ)。
第30代敏達天皇の崩御後、事実上の太后院政を敷き、短命政権であった崇峻天皇・用明天皇の後に、自ら大王に就きました。
聖徳太子とは、おば・おいの関係で、娘の貝蛸皇女(かいたこのひめみこ)が太子に嫁いでいます。
もともと四天王寺は、現在の大阪城の付近、森の宮あたり(大阪市中央区。詳細地は不明、元四天王寺)に建立とされていますが、何らかの事情で、現在地(天王寺区)に移転、再建立されました。
その何らかの事情というのが、西に見晴らしのよい仏教寺院で太陽信仰祭祀を企図した、推古女帝の意向であったように思います。
敏達天皇6年、詔して日祀部(ひまつりべ)、私部(きさいべ)を置く
日本書紀の敏達天皇6年(577年)2月条に『詔して日祀部(ひまつりべ)、私部(きさいべ)を置く』とあります。
日祀部は日奉部 とも書き、その名の通り、太陽信仰の祭祀を行う部(べ、舎人の組織)でした。私部と並べて書いていますから、大王家の私的な部曲(かきべ)だったのかも知れません(柳田國男、折口信夫ら)
よって、その祭祀一切を、皇后であり巫女の豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ、後の推古女帝)が取り仕切ったものと考えられます。
(続く)