はじめに
推古天皇が敏達天皇の皇后 #豊御食炊屋姫 の時に新設されたのが #日奉部(ひまつりべ)#四天王寺 は春分・秋分に日が沈む #石鳥居 の方向を基準に伽藍配置されたことを考えるとここで #太陽祭祀 が行われた可能性が高いですが。#折口信夫 #夕陽丘 #日想観
目次
本文
前回記事(四天王寺伽藍に見える姫巫女の王の意向と太子の創意工夫)
南北に一直線に並ぶ四天王寺。その伽藍は四天王寺式として知られています。
真北(しんぽく)から西へ約3度傾ていることから、創建時代の推古天皇と聖徳太子(の関係性)について考察しました。
今日はその2回目。
推古天皇の日奉(ひまつり)・太陽祭祀
民俗学者の折口信夫(おりぐちしのぶ)が『山越しの阿弥陀像の画因』(1944年7月)という西方極楽浄土信仰を含む考察の中で、日奉(ひまつり)について言及しています。リンク先は少し長編ですので、関係部分だけ抜粋コピペしました。(よみがな、強調部は開物)
・・・さて、此日東(にっとう)の大きなる古国には、日を拝む信仰が、深く行われていた。今は日輪を拝する人々も、皆ある種の概念化した日を考えているようだが、昔の人は、もっと切実な心から、日の神を拝んで居た。宮廷におかせられては、御代御代(みよみよ)の尊い御方に、近侍した舎人(とねり)たちが、その御宇御宇(ぎょうぎょう)の聖蹟を伝え、その御代御代の御威力を現実に示す信仰を、諸方に伝播した。此が、日奉部(又、日祀部)なる聖職の団体で、その舎人出身なるが故に、詳しくは日奉大舎人部とも言うた様である。此部曲(かきべ)の事については、既に前年、柳田先生(注;柳田國夫)が注意していられる。之と日置部・置部など書いたひおきべ(又、ひき・へき)と同じか、違う所があるか、明らかでないが、名称近くて違うから見れば、全く同じものとも言われぬ。日置は、日祀よりは、原義幾分か明らかである・・・
「尊い御方」とは天皇(あるいは皇后)で、日本書紀の記述から、その最初の「御方」は推古天皇(豊御食炊屋姫、とよみけかしきやひめ)と考えてよいでしょう(前回記事参照)
「聖蹟」や「御威力」とは姫巫女の王に期待される加持祈祷力。後の姫巫女・斉明天皇(皇極天皇の重祚)は、飛鳥京で祈雨・止雨の御威力を示したように、推古天皇の太陽祭祀も、折口が書くように 切実なる期待 を背に斎行されていたものと思われます。
古墳時代の永きにわたり、ヤマト朝廷の祭祀一切を取り仕切ってきた物部宗家を、太子が滅ぼした後(丁未の乱)、この国にはあらためて「御威力」を示す新しい祭祀・信仰のスタイルが必須で、それを勃興してきた渡来の仏教が担うのか、それとも、いわゆる新しいスタイルの神道が担うのか・・・
そういう際どい選択を迫られていた時代だったと考えられます。
飛鳥時代の上町台地は、日がのぼる東に河内海(湖)、日が沈む西に難波津(大阪湾、瀬戸内海)がひろがる南北に長い半島で、推古天皇が奉る太陽祭祀を具現化する適地であったはずで、そこに四天王寺が建立された意味があったと考えています。(もちろん飛鳥時代の国際都市のシンボル、迎賓館、国威顕示という目的もあったでしょう)
日奉(日祀)のこん跡がない不思議
ただ不思議なことに、部曲(かきべ)としての官職を担った氏族として「日奉氏」の名は、大和(奈良)、山背(京都)のほか、九州・四国・北陸・関東・東北など全国各地に見えますが、現在の大阪、河内・摂津には見えません。もちろん、その中心地であったはずの古代上町半島に、日奉の名は見えず、記録も一切残されていません。
せいぜい現在の夕陽丘という地名と、春分・秋分に石鳥居の下で行なわれる日想観(にっそうかん、じっそうかん)の法要、そしてお寺の石鳥居がこん跡というぐらいでしょうか。
そこが、自分が生まれ育ったところについての大いなる疑問でもあるのです。(続く)