はじめに
万葉集巻二十 兵部省役人だった歌人 #大伴家持 選 #防人の詩 約九十首が掲載。徴兵された東国の人々が #難波の海 を見つめ前線に向かう自身と家族の行く末を案じた心情を詠います。その中に #四天王寺 にあったと推定される社のヒントがあるかも知れません
目次
本文
白村江の戦いと防人の制
天智2年8月(663年10月)、白村江の戦いで、唐・新羅の連合軍に大敗を喫した中大兄皇子(後の天智天皇)は、664年から筑紫・壱岐・対馬の前線に防人(さきもり)を配備し、瀬戸内海沿岸の要衝を固め、さらに667年、難波宮から近江京に遷都しました。
この中で、難波宮(難波津)は、近江京・飛鳥京の二都を守る国の防衛ライン、ヒト・モノの中継都市に変容してゆきます。
この過程で、難波宮・四天王寺のある難波津は、東国諸国から徴兵された防人(さきもり)らの、前線や辺境への出発地となりました。
防人は3年の任期で、総勢の3分の1が交替する毎年2月、役人に連れられて東国各地から難波津まで歩いてきて、ここから船で出発します。
具体的にどこから出発したのかはわかりませんが、大寺の四天王寺にお詣りして、無事帰還を祈願したのではないでしょうか。
天平勝宝7年(755年)、兵部省の役人でもあった、歌人・大伴家持が、新任の防人らに創らせた歌が、万葉集巻二十に掲載されています。(天平勝寳(てんぴょうしょうほう)七歳乙未(いつび)二月、相替りて筑紫に遣(つか)はさるる諸國の防人等の歌)
90首近くの中から、当時の難波津の様子がうかがえる作品をいくつか紹介します。(歌番号/作者名)
やむなく故郷を離れ、八衢(やちまた、国中に張り巡らされた分岐する道)を歩き、ここでまたはるかな波路を往く防人たちの心情があらわれた詩です。
八十国(やそくに)は 難波に集ひ船かざり 我(あ)がせむ日ろを 見も人もがも
「東国の人たちが難波に集められ準備している。私の出発の日に見送ってくれる人がいてくれたらなぁ」(4329/丹比部國足)
難波津に 装(よそ)ひ装(よそ)ひて 今日の日や 出でて罷(まか)らむ 見る母なしに
「今日は出発の日。(しかし)見送ってくれる母もいない」(4330/丸子多麻呂)
百隈(ももくま)の 道は来にしを またさらに 八十島(やそしま)過ぎて 別れか行かむ
「遠い道のりをやってきたのに、またさらに遠く離れてゆかねばならない」(4349/刑部三野)
庭中の阿須波(あすは)の神に小柴さし 我れは斎(いわ)はむ 帰り来(く)までに
「庭に祀っている阿須波の神に小柴をたてました。無事帰る日までどうぞお守りください」(4350/若麻續部諸人)
※阿須波の神:家・屋敷の神で足羽とも書く。旅行安全の守り神。宮廷で座摩神(いかすりのかみ)として奉斎された5柱のうちの一柱でもある。
葦垣(あしかき)の 隈処(くまと)に立ちて我妹子(わがせこ)が 袖(そで)もしほほに 泣きしぞ思はゆ
「葦垣のすみに立ち、袖もぬれるほどに別れを泣いた妻を思い出す」(4357/刑部千國)
難波道(なにわぢ)を 行きて来(く)までと我妹子が 付けし紐が緒(ひもがを) 絶えにけるかも
「難波道を無事帰って来てね、と妻がつけてくれた紐が切れてしまいそうだよ」(4404/上毛野牛甘)
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太陽祭祀の神社のこん跡 を次回考察するのに、ヒントになりそうな観点でもセレクトしました。
よかったら、どこがヒントになるか考えてみてください。
なお表題の詩は、防人の詩を参考に初万葉集。四天王寺の大塔を見た当時の防人の気持ちでつくってみました。
(続く)
アラハバキ解/新章公開。第30章 転法輪の秘密
キーワード;転法輪、日輪、八衢、糸車