はじめに
伊勢神宮が鎮座する #伊勢国 は神の国。#鈴鹿峠 #鏡岩 は #磐境 #塞の神信仰 のこん跡。峠に出没する山賊、平安初期の武勇 #坂上田村麻呂 も登場する #立烏帽子 #鈴鹿御前 説話の舞台
目次
本文
前回の続きです。
片山神社前の薙刀の碑から、つづら折れの阿須波道(あすはみち)がしばらく続きます。
1キロ弱ほど歩くと、鈴鹿峠付近、坂道が緩やかになります。
しばらく行くと鈴鹿峠の案内板(記事末に文字お越し)。そこから少しで田村神社跡の碑。
現在、田村神社は、麓の片山神社境内に遷座しています(1907年(明治40年)、鈴鹿峠の二子の峰にあった田村神社が三重県亀山市の片山神社に合祀/Wiki 田村神社(甲賀市)より)
鏡岩
ようやく鏡岩に着きました。
頂上側からみると古墳のような盛り上がり。向こう側の崖に張り出した岩塊で、崖下から大きな岩肌が見えます。
専門的には『岩面の一部が青黒色の光沢を帯びた鏡肌(スリッケンサイド)』と言われているそうです。
『山賊がこの岩を磨き、そこに映った旅人を襲ったという伝説から「鬼の姿見」ともいわれている』とあります。
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伊勢国は伊勢神宮が鎮座する『神の国』ですから、鏡岩は、神聖な地の境界としての 磐境(イワサカ)、つまり外から不浄なものが入り込まないようにする 塞ノ神(サイノカミ)的な信仰の対象でした。
そこに峠の山賊という現実的な話が混ざり、立烏帽子(たてえぼし)、鈴鹿御前(すずかごぜん)の説話が生まれ、武雄・坂上田村麻呂公が登場する説話が創作されたのではないでしょうか。
(田村麻呂公は811年没。阿須波道の開通は886年。このあたりは近いうちに整理して紹介したいと思います)
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(次回、麓の片山神社。近日中)
鈴鹿峠 説明板(文字起こし)
伊勢と近江の国境をなす標高三七八mの峠で、東海道は三子山と高畑山の鞍部を通っている。都が奈良盆地にあるときは、伊賀から加太峠を超え伊勢へ入る経路(後に大和街道と称す)が東海道であった。しかし仁和二年(八八六)近江から鈴鹿峠を超え伊勢へ入る阿須波道と称する新道が開かれ、同年斎王群行がこの新道を通って伊勢神宮へ向かうよう定められたことから、鈴鹿峠越えが東海道の本筋となった。峠越えが開通して間もない昌泰元年(八九八)、伊勢神宮へ下った勅使が山賊に襲われている(伊勢公卿勅使雑例)。建久五年(一一九四)には源頼朝が近江国中の地頭山中氏に盗賊の鎮圧を命じていることや(山中文書)、『今昔物語集』の蜂を飼う水銀商人が山賊を退治する説話、『太平記』の坂上田村麻呂と戦った鈴鹿御前の話などから、古代から中世にかけて山賊が横行していた様子がうかがえる。
また「鈴鹿山」は伊勢国の歌枕として著名で多くの作品が残されている。
『拾遺集』
思ふ事 なるといふなる鈴鹿山 超えてうれしき 境とぞきく(村上天皇)
世にふれば またも超えたり鈴鹿山 昔の今に なるにやあらむ(斎宮女御)
『新古今集』
鈴鹿山 浮世をよそに振り捨てて いかになりゆく わが身なるらむ(西行)
このほか、峠頂上には磐座と推定される「鈴鹿山の鏡岩」 や、坂上田村麻呂を祀った田村神社旧跡 があり、これらは峠祭祀に関わるものと考えられる。
江戸時代、鈴鹿峠は「東の箱根峠、西の鈴鹿峠」と言われ、松葉屋・伊勢屋・井筒屋・堺屋・山崎屋の茶屋が立ち並び賑わっていた。現在でもこれらの茶屋の石垣が残され、往時の情景を偲ぶことができる。