ものづくりとことだまの国

縄文・弥生・古墳時代の謎。古神社、遺跡、古地名を辿り忘れられた記憶、隠された暗号を発掘する。脱線も多くご容赦ください

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【新説・四天王寺】ベールに包まれた守屋祠が物語る謎【物部さん考】

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四天王寺 物部守屋祠(太子の月命日(22日)公開)

はじめに

四天王寺にあったと推理される熊野神社を探す目的で書き始めた #新説・四天王寺 シリーズ。調べるほどに新たな謎がさらに謎が呼ぶ展開に。#物部守屋 #守屋祠 #日出ずる処 #丁未の乱

目次

本文

新説・四天王寺シリーズについて

四天王寺さんにあった熊野神社のこん跡を探す目的で書き始めた「新説・四天王寺」シリーズ。

前回「次回近日」なんて書いていましたが(念のため)調べるほどに、新たな謎がさらに謎が呼ぶ展開になっています。

さすが!日本古代史の最大級の謎。簡単には答えを見せてくれるはずもありませんでした。

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二年前の2019年4月。当ブログの2話目

ここから始まった私の古代妄想の旅は一巡目を終わって、ようやく二巡目を過ぎたあたりかな?と、あらためて感じています。あと何順できるのでしょうか。笑

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四天王寺金堂東壁面の鳥居は物部守屋祠を向いている

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西に三度傾いた伽藍中心は守屋祠を(も?)向いていた

これまで二度、四天王寺伽藍が西に約3度傾いていることを紹介してきました。

2020年6月記事:四天王寺の中心伽藍は西に約3度傾いている(発見)

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2021年2月記事:西に約3度傾いている四天王寺中心伽藍(理由の考察)

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今年2月の考察以降、四天王寺が日本初の神仏習合寺院であるゆえに、南北ラインに仏教、東西ライン(春分秋分の日の出日の入りライン)に古神道をクロスさせる(単純な)祭祀空間を考えていたのですが。。。

太子軍が丁未の乱(587年)で滅ぼし、四天王寺建立の契機となった物部守屋(もののべもりや)の祠の存在にあらためて注意が向きました。

なんと!太子の仇敵 であるはずの守屋の祠が、熊野社の本殿があると睨んでいた位置に鎮座しています。

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西に三度傾いた伽藍中心は守屋祠を(も?)向いていた

春分秋分の日、転法輪石の左(西)のライン上の石鳥居のど真ん中に太陽が沈みます。

つまり、転法輪石の右(東)のライン上にある守屋祠は、『春分秋分に日が出ずる処』に鎮座しているのです。

それが意味するところは今のところ分かりません。

物部守屋厩戸皇子聖徳太子)の仇敵と考える理由 点と線

なぜ物部守屋を太子の仇敵と書くのか。その推理の点と線は今まで説明していなかったと思います。

丁未の乱は587年7月。

調べればわかることですが、実はその数か月前の587年5月に、太子のお父上の用明天皇崩御(ほうぎょ)しています。

点1)丁未の乱用明天皇崩御の直後に勃発している史実。

点2)用明天皇は仏教に傾倒した日本ではじめての天皇であること。

点3)そして太子軍が古墳時代という一時代を築き上げた古代の最大豪族・物部宗家を滅ぼしたという史実。

戦いの渦中とはいえ、太子がなぜ滅ぼすほどに 守屋に強い怒りをいだいていた のでしょうか。

これらの点を繋いで推理される線。

物部守屋用明天皇の死に直接的に関わった。。。

そもそも用明天皇が病死したという教科書の定説は、ほんとうに正しいのでしょうか。

なお、丁未の乱では蘇我馬子が太子軍を主導したというのが定説ですが、私は馬子も含めて『蘇我氏(特に三代)はいなかった』と考えています(蘇我氏三代:馬子-蝦夷-入鹿)

意外な話ですが、あれほど記紀や寺社仏閣の由緒・縁起に登場するにも関わらず、蘇我氏が実在したことを裏付ける考古学の証拠は何ひとつ出ていません。

有名な馬子の石舞台古墳は伝承に過ぎず、入鹿の首塚に至っては鎌倉時代五輪塔様式で、地元では尼供養のものと認識されています。

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太子軍は、秦河勝(はたのかわかつ)の補佐のもと、若き厩戸皇子(太子)自身、あるいは、太子の一族が率いたと考えています。

ただ丁未の乱の後、河勝を含め秦氏の政治的な動向が伝えられず、蘇我氏の悪行ばかりが書かれた日本書紀古事記に違和感を覚えます。

飛鳥時代ヤマト王権の悪事象がほぼ蘇我氏に集約された背景に、用明天皇の死に関与した 真犯人 がいて、記紀はそのこと(真犯人)を隠そうとしたのではないか。

崇峻天皇の暗殺も同じ。

このあたりが飛鳥時代を推理する面白さであり、四天王寺はそのことを考えるに足る場所だと思うのです。

付け加えると、怒りに翻弄される人間臭い、若き厩戸皇子の姿こそ、後に聖徳太子として聖人化された人物が確かに存在していたと考える理由のひとつでもあります。

(次回、近日中。守屋祠について)

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