はじめに
転法輪の歴史を書き始めると長くなるので何回かのシリーズで。法輪の図に込められた意味と日本の歴史における変遷。#日祀部 #推古天皇 #豊御食炊屋姫 #トヨ #厩戸皇子 #五条宮 #四天王寺
目次
本文
前回。
釈迦の教え 初転法輪
ほぼWikiからの受け売りです(笑)間違ってたらゴメンナサイ。より詳しくはこちらをご覧ください。
釈迦が弟子らにはじめて仏教を説いた時、核心となったのが『四諦』『八正道』『中道』。
悟りの道の原則が『四諦』、物事に対するスタンスが『中道』、行いが『八正道』というところでしょうか。
『中道』は、足して二で割ることではなく、なにごとも両極端(快楽と苦行など対立するもの)を離れるという教えだったんですね。この年で知りました。
『八正道』は英語の方が直観的にはわかりやすいです(Wiki『八正道』より)
日本仏法最初の転法輪
四天王寺の伽藍中心の転法輪石を考えるほどに、
巫女であり大王である推古天皇の太陽祭祀(日祀(ひまつり)神道)を、仏教の教え(転法輪)と和合させた聖徳太子(厩戸皇子)の天才と苦心に、驚くとともに頭が下がります。
日本で、天竺(インド)にはなかった方位の概念が含まれたのは、こんな事情があったように思います。
日祀部(ひまつりべ)のトヨ ★
古代妄想レベル:★★★=MAX ★★=MEDIUM ★=MIN or A LITTLE
さて、謎の日祀部(ひまつりべ)。
神道を重視したと云われる敏達天皇は『誰の』発案で『どこに』その組織(制度)を置いたのでしょうか。
推古天皇の名は、豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)。
(春分・秋分の日に)姫巫女は炊屋(かしきや)にこもり、神様(アマテラス)の食事(神饌=御食)を供する。。伽藍の中の龍の井戸。。トヨ
伊勢外宮の豊受大神(とようけおおみかみ)の トヨ に通じます
垂仁天皇(第11代)の皇女、倭姫(やまとひめ)以来の伝統を、豊御食炊屋姫が受け継いだとしたら。。。
四天王寺の前、そこにあったものの意味が見えてきます。
五条宮は欽明-敏達の宮で四天王寺の至近。御祭神は敏達天皇。橘(たちばな)の紋。
個人的には欽明天皇の難波祝津宮(なにわはふりつのみや)は五条宮(周辺)で、敏達の崩御後は推古天皇の私的管理になり、後の四天王寺の創建(593)に関係したと考えています。
(写真中央:左の門柱碑に欽明の文字)
(続きます。次回は八角墳について)
古墳時代中期 #鉄器の需要が急増。原料鉄の輸入対価として #硬玉ヒスイ が集められ韓半島マーケットに輸出。#物部氏 はサプライチェーンを支配