はじめに
ヤマト創世記の謎を解くキーマン #オオタタネコ(大田田根子)。おそらくその名が地名に残る桜井市太田の #纏向遺跡居館跡 と #他田坐天照御魂神社。ここから日の出を眺めると #三輪山 は #ヤマト創世記 #古代太陽暦 の基準であったことがうかがわれます #日祀部
目次
本文
纒向遺跡・居館域
「纒向遺跡・居館域」は纏向遺跡の北(奈良県桜井市太田78)。三棟の柱列跡が復元されています。
ここから三輪山がよく見えます。
他田坐天照御魂神社(おさだにます あまてるみたまじんじゃ)
(34.546268643770034, 135.83895002313525)奈良県桜井市太田205/JR桜井線(万葉まほろば線)巻向駅から徒歩5分
御祭神:天照御魂命(あまてるみたまのみこと)
延喜式神名帳に「大社」に列格された「他田坐天照御魂神社」が、この太田の天照御魂神社と伝えられています。
纏向太陽祭祀のこん跡
当社は、敏達天皇(古墳時代晩期)の御世の創建との記録もあります(正倉院文書、大倭国正税帳)。
太田(当社)から見た日の出の方位は、立春(2月上旬)・立冬(11月上旬)には三輪山山頂から、春分・秋分には三輪山に連なる巻向山から、になるということで、敏達天皇がここに日祀部(ひまつりべ、日奉部とも)を置いたとの説もあります。
つまり、皇后の豊御食炊屋姫(推古天皇)が姫巫女として祭祀を主催することになります。この場所なら、十分にあり得ますね。
(開物は、敏達天皇(五条宮)と推古天皇(四天王寺など)のこん跡が残る地元の古代上町半島(天王寺区、現在の四天王寺)に日祀部が置かれていたと考察しています)
飛鳥時代の敏達天皇・推古天皇よりもはるか昔の 弥生時代から、纏向一帯には三輪山を規準として、方位で季節を観る太陽信仰があったことは確実 で、むしろ日祀部はその伝統を受け継いだものと考えることもできます。
つまり、いずれも太陽の運行で「稲作サイクルの一年」を計る 古代の太陽暦 ということになります。
(纏向遺跡居館跡の建物群と三輪山は、古代ヤマトの国の太陽祭祀に基づく暦(春・秋・冬)の基準点であったと考えることができます(アラハバキ解)。。。私は三輪山山頂の日の出は冬至(12月下旬)と考えていますが、上述の通り、立冬説もありますので、今年の立冬のころに確認したいと思います。)