ものづくりとことだまの国

縄文・弥生・古墳時代の謎。古神社、遺跡、古地名を辿り忘れられた記憶、隠された暗号を発掘する。脱線も多くご容赦ください

【纏向遺跡(弥生時代)】古代太陽祭祀『太陽の道』共通するこん跡【四天王寺(飛鳥時代)】

はじめに

先日紹介した #纏向遺跡居館跡 は正式には(考古学では)#辻地区の建物群 と言うそう。三棟の建物跡の中心線は西に約5度傾いています。四天王寺の中心伽藍は西に約3度傾いており地図で比べてみました。#春分秋分 #太陽の道

目次

本文

纏向遺跡居館跡(辻地区の建物群)

一番小さいのが「建物B」(西)、中央が「建物C」、一番大きいのが「建物D」と名付けられています。

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纏向遺跡居館跡(辻地区の建物群)想像復元図(桜井市遺跡解説パンフレットより)

測量図に記載されているように、西側の大きな建物Dの南側の土坑(どこう)から 大量の桃のタネ が出土したのはよく知られていますね。

測量図の建物群の中心を通る赤い線は開物が引きました(真東と真西を結ぶ、水平線に対して-5度。西に約5度傾いています)

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纏向遺跡居館跡(辻地区の建物群)測量図(桜井市遺跡解説パンフレットより)

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纏向遺跡居館跡(辻地区の建物群)左から建物B(西)、建物C(中央)、建物D(東)

春分秋分の「太陽の道」

航空地図では次のような感じです。

纏向遺跡居館跡の建物群の各中心を通る赤い線は、春分秋分の日の日の出と日の入の線を結んだ太陽軌道のラインです。

これが 太陽の道 というものではないかと思います。

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纏向遺跡居館跡(辻地区の建物群)

なぜそうなのかと言いますと、当ブログで何度か取り上げた四天王寺大阪市天王寺区)伽藍の春分秋分ラインとほぼ一致しているからです。

詳しくは過去記事をお読みいただくとして、四天王寺の中心伽藍は西に約3度傾いています。

春分秋分の日には、伽藍の東西を通る参道の先にある 石鳥居の中心に太陽が落ち、日想観の法要が行われます。

纏向遺跡のラインを四天王寺のラインにあてはめてみるとわずかにズレていますが、これは古い時代の測量技術による誤差の範囲内でしょう。

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四天王寺伽藍に纏向遺跡のラインを書いてみました

www.zero-position.com

www.zero-position.com

まずは、考察のために、事実確認の意味で記事にしてみました。

纏向遺跡を基準とした「太陽の道」

纏向遺跡のラインをヤマト平野に拡大してみると、東(日の出)は穴師山(あなしやま)、西(日の入)は二上山(にじょうざん)の北麓を指しています。

三輪山頂は纏向ラインから東に約28度傾いたところになりますが、これは纏向遺跡から見た時、冬至の日の出の方向になるはずです。

都合がつけば、今年の秋分冬至の日に、纏向遺跡から見た日の出の方向を確認したいと考えています。

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ヤマト平野(奈良盆地)。纏向遺跡のライン

参考までに。三輪山・巻向山・竜王山は、明日香村(南西の方向)からみると「大鳥のカタチ」に見え、これが『飛鳥』の名の元となったという考え方(命名柿本人麻呂?)があります。

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飛鳥・橘寺(聖徳太子の誕生伝承地)前の石碑

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