はじめに
桜井市出雲 #野見宿禰の塚跡。明治期に塚が取り壊された際、中にあった朱を捨てたところ、初瀬川(大和川源流)の水が三日三晩、赤く染まったと伝えられます。塚跡からは #原始三輪山 著者・榮長増文氏が #三諸山 と提唱する山容を眺めることができます
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本文
野見宿禰の塚跡
十二柱神社から東南に約400メートル。
(34.52429405925967, 135.89418291724292)/奈良県桜井市出雲1520
文字起こし・途中から)・・・野見宿禰の塚がここから西南約百五十メートルのところに明治十六年まであった。直径二十メートル以上の豪壮な塚で、その上に巨大な五輪塔(十二柱神社境内に現存)が置かれており大昔から近所の人や力士が常々お詣りしていた。それが明治十六年に実際取り壊された。そのとき、塚の中にあった朱を捨てたところ、初瀬川の水が三日三晩、赤く染まった。親子勾玉(子持勾玉 ※記事末に参考リンク)や埴輪、直刀(ちょくとう)、土器などが出土したとの伝説が、今も伝えられている。なお、この付近から1967(昭和42)に、縄文、弥生、須恵器(すえき)など多数の破片が採取され、縄文の大昔から人が住んでいたことが推察された。ここは古代の市場、君殿庄(きみどのしょう、あるいは申川さるかわ、平田、辟田へきた、とも呼称)伝承地の西端にあたり、巻向~ダンノダイラ~出雲村~狛峠~宇陀の古道 にも沿っている。古代史の謎をかかえた地である。2000年初春、相撲開祖 野見宿禰顕彰会
案内板に従って行くと、二手に別れて田んぼの方にゆく道に道標。
写真左の方、田んぼの中に石碑が見えます。
ここで立ち止まって、後ろの山容を眺めてください。
ちょうど真後ろ(写真中央)に三つの山の稜線が並んでいますが、左からダンノダイラ、中央が巻向山(まきむくやま)、右が泊瀬山(はつせやま)。
手前の家屋の向こうが(十二柱神社が鎮座する)桜井市出雲あたり。
この三つの山の並びを「原始(もと)三輪山」著者の榮長増文氏は『三諸山、みもろやま』ではないかと推理しておられます。
定説では三輪山=三諸山と解釈されていますが、榮長氏は、次の万葉歌を例に初瀬川(泊瀬川)の中流域から眺める三山を三諸山と提唱しています。
三諸の その山並みに 子らが手を 巻向山は 継ぎのよろしも(柿本人麻呂。万葉集巻7ー1093)
三諸の山並みは巻向山を中にして手をつなぐ子らのようだ(榮長氏の意を受けて開物訳)
【参考】子持勾玉(こもちまがたま)
■子持勾玉とは大型の勾玉周囲に小さな勾玉を付けた形状をなすが、何を形象したかが明らかでない(文化遺産オンラインより)