はじめに
ヤタガラスを推理する時の3つ目の条件は #太陽祭祀 のこん跡。#藤原京のヤタガラス(畝傍山+葛城の大鴨)が見える複数の地点を繋いでみると、藤原京から見て南西に29度、#冬至の日の入 方向 が見えてきます #八咫烏
目次
本文
藤原京の中心(内裏(だいり、太極殿と醍醐池)-朝堂院-朝集殿院)
藤原京の中心部は、北から太極殿を含む内裏、朝堂院、朝集殿院が『真の』南北に並ぶ配置となります。
内裏は天皇一族の住まいで、そこから南の太極殿は天皇が謁見するところ。朝堂院は国家行事を行うところ、朝集殿院は舎人(官人)や豪族が参集待機するところ、といった感じです。
内裏(だいり)の真ん中に長方形の醍醐池がありますが、その醍醐池の北東角から、藤原京のヤタガラス(畝傍山+葛城の大鴨) を撮影しました。
手前のヤタガラスの頭の畝傍山と、羽根が葛城の大鴨(葛城山と金剛山)がピタリとあっていますね。
藤原京のヤタガラス(各撮影ポイント)
他に藤原京のヤタガラスが見えるところ、北東方向に藤原京から離れてゆきます。
ヤタガラスであることの3つ目の条件。太陽祭祀のこん跡
橿原市藤原京資料室も含めて、4地点と畝傍山山頂を線で繋ぎますと。。。
北東~南西を結ぶ29度の傾きライン上に並んでいます。
この約29度の傾きラインは、ヤマト地方(京阪神)では、ほぼ 冬至の日の入の方向 、そして、夏至の日の出の方向を結びます。
藤原京の内裏から見ると、畝傍山は南西ですので、毎年、冬至の季節にはヤタガラスの頭の中心(畝傍山)に日没 することになります。
ご存知のように、冬至は、現代天文学に基づく暦(節季)では12月20日すぎにあたります。
藤原京の時代には、一年があらたまる新年ととらえられ、都の主であった持統天皇(第41代女帝)、文武天皇(第42代)は、ヤタガラスを目印として一年の終わりと始まり(循環と再生)を検知する、、、
時の天皇の重要な役割のひとつは、太陽祭祀をつかさどり、暦を報せる 時の支配者(太陽神の代理人、依り代) であったと言えるでしょう。