はじめに
平成28年 #藤原京 朝堂院跡から #続日本記 701年(大宝元年)#元日朝賀の儀式 の記述と一致する大型の幢幡(とうばん、旗竿)跡。#四神日月カラス 七つの柱穴が見つかり大ニュースになりましたね
目次
本文
ここ数日のお話は #ヤタガラス のスガタを追っているうちに #藤原京 に足を踏み入れたという自分にはドラマティックな展開でした。古代の都と八咫烏の関係について #橿原市藤原京資料室 の展示から紹介 #続日本記 #元日朝賀の儀式 #日像の八咫烏
内容は橿原市藤原京資料室のパネルから引用させていただきました(写真のパネル類は2019年10月撮影です)
藤原京について
文字起こし)672(天武元)年、壬申の乱に勝利を収めた天武天皇(大海人皇子)は、中国の制度を手本にした律令制に基づく国づくりをめざしました。新しい政治を進めるための本格的な都として天武天皇によって計画され、694(持統8)年、その遺志を受けついだ持統天皇(皇后)の時代に完成しました。平城京遷都までの16年間、藤原京は古代中央集権国家の基礎を整え、短くも充実した役目を果たしました。
694年~710年(和銅3年)、16年間という短命でしたが、その間、主に持統天皇、文武天皇の二代が藤原京で政治を行いました。
元日朝賀。四神・日月・カラス 七本の幢幡(旗竿)
平成28年に、大極殿の南の朝堂院跡の北側から、朝廷の重要な儀式(国家行事)で掲げた大型の旗竿跡とみられる柱穴が見つかりました(奈良文化財研究所)
史書『続日本記、しょくにほんぎ』には、701年の元日朝賀で7本の幢幡(とうばん、旗竿)が立てられたとの記述があり、発見された柱穴の本数や配置が続日本紀の記述どおりという大発見でした。
701年(大宝元年)というのは、持統天皇が太上天皇として文武天皇に後継を譲り、大宝律令を発布し律令国家を開始する、その新年を迎えた歴史的な日にあたります。
日像には三本足のヤタガラスが描かれていました。
(下のパネル。月像の説明で「樹下のうさぎとかめ」になっていますが「うさぎとかえる」の誤りです)
続日本紀には、律令国家の成立を宣言した元日朝賀の儀式について、
①正面にカラスの旗竿、
②東側に太陽の日像と青龍と朱雀の計3本、
③西側に月像と玄武と白虎の計3本、
計7本の旗竿が立てられたと記録されています。
朝廷で、臣下や(王宮守備隊としての)東の蝦夷(えみし)・西の隼人(はやと) が参列して行われた儀式の様子(作画・早川和子さん。東北歴史博物館/古代エミシと律令国家、図録より)
掲示物より)高松塚・キトラ古墳(明日香村)でも東に日像と青龍、西に月像と白虎を描くなどの共通点がある。陰陽五行思想をベースに宇宙を統べる天帝になぞらえ絶対的権力を持つ天皇制の始まりを宣言したものとみている(東京学芸大、木村正史氏、考古学)
平城京の幢幡。四神日月カラス
同じく掲示物より)平城宮跡(奈良時代中期以降)や平安時代の即位式の絵図などでは、幢幡(旗竿)を横に一列に並ぶ様式が見られる。
【続日本記】元日朝賀と日像のヤタガラス【点と線】
律令国家の宣言をして新年を迎えるという日本史上たいへん重要な儀式。
では、藤原京の当時、新年元日をどのようにして計ったのでしょうか。
太極殿の北に隣接する醍醐池北東の水辺からみて、冬至(12月20日すぎ)に藤原京のヤタガラス(頭の畝傍山)に日が沈む景色は、一年の終わりと始まりの重要な目印であったことでしょう。