はじめに
遠野市内から北の早池峰神社に向かう道路わきに鎮座する #神遣神社(かみわかれじんじゃ)。約40年前に建てられた案内板には遠野物語第二話で紹介されている遠野三山の伝承と三人の娘神の名。拝殿裏に由緒を伝える石碑 #遠野権現 #慈覚大師
目次
本文
(39.44664608990796, 141.5055412267094)/岩手県遠野市附馬牛町下附馬牛/北の早池峰神社に向かう道路脇に鎮座
御祭神:神遣権現(遠野三柱の娘神もしくは母神も含めた四柱と考えられる)
道路脇の森に鎮座し、境内はなく祭壇のある小さな拝殿だけ。案内板がないと車で通り過ぎてしまいそうでした。道路脇のスペースに停車してお詣り。
案内板には地元有志の手になると思われる約40年前の遠野伝承が書かれていました。先日紹介した遠野物語第二話(遠野市立博物館パネル)と話の筋は同じですが、こちらには母神・娘神の名が書かれています。(名がある方が覚えやすく、先日の記事には、こちらをもとに母神・娘神の名を追記しました。)
遠野三山は、古くから霊場として信仰の対象とされてきましたし、民話や伝説の類もこの三山にまつわるものが多くあります。次の話はその代表的な物語りです。「大昔に女神あり、三人の娘を伴ひてこの峠に来たり。三人の娘の名は姉娘が「おろく」次娘が「おいし」末娘が「おはや」という。この神社に宿りし夜、今夜よき夢を見たらん娘よき山を与ふべしと母の神の語りて寝たりしに、夜深く天より霊華降りて姉の姫の胸の上に止りしを、末の姫眼覚めてひそかにこれをとりわが胸の上にのせたりしかば、つひに 最も美しき早池峰を「おはや」が得、姉たちは、「おろく」が六角牛、「おいし」が石神 (石上) とを得たり。若き三人の女神各三つの山に住し、今もこれを領したまふゆえに遠野の女どもはその妬みを恐れて今もこの山は遊ばずといへり。(昭和六十年八月 早池峰郷成会、遠野市・遠野市観光協会)
三娘神の御神影と御由緒を伝える石碑
右は遠野かっぱの木像。
神社の御本殿の裏。比較的新しい大正十一年の石碑。『斉衡年中*1 慈覚大師開基 早池峰二十末社之上首 神遣権現』の刻字。
当社の御由緒を知らせる石碑で、平安時代前期、慈覚大師によって早池峰神社の二十末社の筆頭として創建されたとの内容が刻まれています。御祭神は神遣権現。
短文ですが、当社の正統な御由緒を伝えたいという内容から、明治期の上位下達の厳しい神仏分離(政策)からの揺り戻し(反発)が起きた大正時代、地元有志によって建てられた碑と考えられます。
慈覚大師は第三代天台座主(ざす)円仁のこと。(先日紹介した恐山菩提寺も慈覚大師の開基説。)
下野国(しもつけのくに、栃木県)出身で、遣唐使からの帰国後、精力的に東北~関東一円の在地の信仰(古神道)を、本地垂迹*2の考え方のもと、仏教(神仏習合的)に書き換えた人です。
遠野の三人の娘神の伝承をマッピング
三人の娘神が領したという、遠野三山〜早池峰山・六角牛山・石神山〜と関連する神社、伝承の娘神の名をマッピングしてみました。
始まりの伊豆神社(母神・瀬織津姫の社)を基点に三方向・放射状に広がるライン上に神社と山が乗っています。(玄松子さんが既に報告しておられます。「玄松子 神遣神社」で検索。)
神遣神社には、母神と三人の娘神が伊豆神社から早池峰山に向かい、ここでそれぞれに別れた(神遣、かみわかれ)というストーリーが込められているようです。
このような自然地形を利用してストーリーを展開する空間的なデザイニングは『いかにも慈覚大師らしい』という気がします。
もしそうであったとすれば、慈覚大師が古い神名を書き換えるために、大仕掛けをしなければならないほど、遠野には(仏教以前の、おそらく縄文を継承し弥生時代以降も続いた)古くからの信仰(アラハバキ信仰あるいはサイノカミ信仰)が根強くあったことを伝えているのかも知れません。
カッパの正体は水運を得意とし、川の流れを熟知してクニづくりを進めた縄文・弥生文化の人々のことかも・・・と妄想しています。