はじめに
青梅市郷土博物館で主に縄文展示と #石棒 を見学した後 #おしゃもじさま の祠へ参拝。現地には案内や目印もなく少し迷いましたが、勝沼城址南東の山腹に祀られていました
目次
本文
青梅市郷土博物館 巨大石棒の展示
前回のつづき。お目当ての縄文時代の石棒です。
石棒は、先祖を祭る神の象徴として、また子孫繁栄、自然界からの恵みを祈る信仰のため、縄文時代中期(今から4000~5000年前)から作られるようになったと考えられています。そして中期後半から後期にかけて石棒は、敲打法(こうだほう)という石材をひたすらこつこつたたく方法で時間をかけ、大型で、美しく整った形が作られるようになります。展示した長い石棒はこの時期の典型的なもので、大正2(1913)年、博物館の対岸にある千ヶ瀬町6丁目94番付近から電柱を建てる際に偶然発見され、青梅警察署を経由して東京大学に移送されたものです。その直後、考古学者坪井正五郎博士らによって現地が調査され、出土状態が記録されました。石棒は単頭型といわれ全長159cm、重量60kg、安山岩製で、現在国内で確認されている中で2番目の大きさを持った優品 です。手前のもう1点は、整った 両頭型 で全長114センチ、緑泥片岩が用いられています。市内から発見されたものですが、細かな記録は残されていません。また、用いられた石材はいずれも市内で産するものではないことから、人々は移動のたびに、大切なものとしてたずさえ青梅にたどりついたものです。特に大型石棒の頭部と反対側の末端が斜めに摩りへっています。おそらく重たい石棒を引きずりながら運んだものでしょう。
たいへん興味深い説明ですね。
岩をひたすら叩き、丹念に美しく石棒に仕上げた精神性は、たいへん硬いヒスイに(専用工具と分業体制で)根気よく孔を開けて珠(たま)にして磨き上げた 縄文職人のものづくりの姿 に共通します。私は日本人の「もの」に対する考え方と、ものづくりの原点と考えます。アラハバキ解第12章、アラを追ってわかるヒスイの孔の理由
それに、先住地から重い石棒を引きずりながら長距離を移動してきたんですね。つまり石棒を持ってきた人々(グループ)には先祖伝来の かけがえのないもの。そして、石棒を集落のどこかに置くことが、彼らの生活に(おそらく切実に)必要な条件であったということ。
おしゃもじさま(参拝)
郷土博物館で、おしゃもじさまのおおよその場所と道順を聞いてから行きました。(車で約10分)
勝沼城址南東の山麓の青梅市無料駐車場に車を入れてから、妙光院(青梅市師岡町1丁目1521−1)の境内から、隣接するおしゃもじさまの祠に向かうのが一番わかりやすいです。(青梅市無料駐車場=35.79599148407693, 139.27769354854365)(おしゃもじさま=35.79530831669522, 139.27574461939116)→数値のみ(経度,緯度)をグーグルの検索窓にコピペして検索)
現地周辺で何人かに道を尋ね、最後は親切な近所の方に、地元の人でしかわからないような建物の間の狭い路地を案内してもらい、祠に上がる階段下にたどり着きました。
下の祭壇には二つの丸石。こちらは女石(陰石、子宮石)の可能性がありますが、経緯や関係は分かりません。
次回、どのような経緯で、縄文石棒が「おしゃもじさま」といわれる祠の御神体になったのか、紹介しておきたいと思います。
おしゃもじさま参拝の留意点
現地には案内図等はありません。グーグル地図に表示されません。郷土館で住所(地番)を教えてもらいましたが、現地に標識はありません。
妙光院(境内、本堂正面から左手の山腹)からおしゃもじさまの祠に向かう場合、少し手前に立入禁止の札が建てられていました。すぐ向こうの斜面に祠が見えているのですが。
私は祠の下の階段から特段の危険もなくこちらに抜けて来たので、たぶんここから祠に向かう20メートルほどの距離なら大丈夫だろうと思いますが、念のため現地でよく安全を確認してから参拝してください。