はじめに
京都 #清明神社 境内には近くの #堀川通に架かる #一条戻橋 の欄干。西暦900年代後半には一帯は陰陽師が住み鬼が出没する都の西の端になりました。#浄蔵 #安倍晴明 の父親蘇生、#渡辺綱 #鬼退治 3つの伝説が残されています
目次
本文
清明神社境内 一条戻橋の欄干
清明神社の二の鳥居をくぐって向かって左手に一条戻橋(いちじょうもどりばし)の欄干が置かれています。案内には『大正11年から平成7年まで実際に使用されていたもので、御祭神の安倍晴明公ともゆかりの深い橋ゆえ、境内に復元しました』と書かれています。
一条戻橋とは、一条通りの堀川に架かっていた橋のこと。
欄干のそばに、アニメチックで現代風のユーモラスな表情のおばあさんの石像。
謂れを調べずに書いていますが、安倍晴明が使ったという式神(しきがみ、陰陽師が使う鬼神)がモデルでしょうか。
一条戻橋
実際の一条戻橋は清明神社の前の堀川通をわたってすぐ、堀川のところに架かっています。
堀川通は六車線もある大きな通りですが、そばを流れる堀川は、びっくりするほど小さな流れです。
水辺に降りてゆくと案内板。前・中・後で3つの伝承が書かれていますが、時代順に前・後・中に並べて紹介します。
前回書きましたが、もともと平安京(794年)は今の京都御所より西に約1.5kmの千本丸太町を中心に創都されました。しかし900年代後半以降に都の中心が東に遷ってゆき、それにともない、清明神社や一条戻橋のある堀川一帯は、陰陽師が住み、鬼が出没する都の西の際(きわ)になったことが3つの伝承を通してうかがえます。
一条戻橋 ①浄蔵の父親蘇生伝説
案内板・前)延喜18年(918年)文章博士・三善清行(みよしきよつら)が亡くなった時、父の死を聞いた熊野の僧「浄蔵(じょうぞう)」が紀州熊野から京都に馳せ帰ってみると、その葬列は丁度この橋の上を通っていました。浄蔵は柩(ひつぎ)にすがって泣き悲しみ、神仏に熱誠を込めて祈願したところ、不思議にも父清行は一時蘇生して父子物語を交わしたという伝説から戻橋と名付けられたと言われています。
浄蔵は、祇園祭(先祭)の山伏山の御神体・浄蔵貴所(じょうぞうきしょ)のこと。
一条戻橋 ②安倍晴明公の父親蘇生伝説
案内板・後)また一条戻橋は「あの世」と「この世」をつなぐ橋とも言われていました。伝説では、平安時代の天才陰陽師として名高い安倍晴明の父である保名(やすな)が殺害された場所であり、清明が呪法を駆使して保名を蘇生させた場所とも言われています。(西暦1000年より少し前の話)
先ほどの浄蔵の伝説と似ていますね。
浄蔵は安倍晴明公のモデルにもなった人物とも云われていますが、この一条戻橋譚のように、二人のスーパーマン伝説が混同されて、晴明公の行跡として今に伝わっているというのが正確でしょうか。
一条戻橋 ③渡辺綱と鬼伝説
案内板・中)太平記、剣の巻によれば、その頃、源頼光(みなもとのらいこう、よりみつ)の四天王の一人であった渡辺綱(わたなべのつな)が深夜この橋の東詰で容貌美しい女子に「夜更けが怖いから送ってほしい」と頼まれたので、馬に乗せたら女はたちまち鬼と化し、渡辺綱が腕を切り落とした、と記されています。(西暦1000年初頭の話)
なお、髷(まげ)を掴まれ空に引っ張り上げられながらも渡辺綱が切り落とした鬼の腕は、ここから約1.5km西の北野天満宮の境内に落ちたと云われています。
続きます。