はじめに
平安京 #鵺伝説(ぬえ) の二回目。前回の神明神社(下京区)に続き京都二条城北西 #鵺池 #鵺大明神(上京区)に参拝。ここで退治されたヌエの遺体は都を引きまわされた後 #うつほ舟 で大阪に流れ着きます
目次
本文
二条公園(京都二条城の北西)
(35.017224021255956, 135.7459836326324)/京都市上京区主税町964/二条城北西の二条公園内、JR嵯峨野線(山陰本線)二条駅から徒歩10分
JR京都駅から嵯峨野線(山陰本線)で三駅目。二条駅から徒歩10分。二条城北西の二条公園内。
12月19日訪問。22日は冬至の日ですが、こんな寒い時期に咲く桜があったとは!!
春の桜にくらべて花は小ぶりで、遠目には華やかさを感じませんが、近くから見上げると、たしかに青空に映える桜の花でした。
鵺池(ぬえいけ)と鵺大明神
前回、神明神社(京都市下京区神明町)の鵺(ぬえ)伝説の続き。
近衛天皇(在位1141-1155)時代(平安末期)の『頭は猿、尾は蛇、手足は虎の「鵺(ぬえ)」という怪鳥が毎夜、空に現れ都を騒がせた。弓の名手であった源頼政は退治の命を受け、神明神社に祈願をこめた後、見事に鵺を退治した』伝説。
その源頼政が射て鵺の血がついた矢じりを洗ったのが、ここ、鵺池と伝えられています。
冬の低い太陽が、影を長く伸ばしています。
池のほとり(二条公園北側)に鵺を祀る祠(鵺大明神)。
二条公園入口の案内板には、この二条公園は、平安時代・初期平安京の太極殿のすぐ近くであること、江戸時代・徳川幕府の京都所司代の下屋敷跡(上屋敷とともに二条城の北側)であったことが書かれています。
先日来の清明神社の記事中、初期平安京の太極殿は堀川通の西側(千本丸太町あたり)であったことを紹介していましたが、この図を見ると、その様子がよくわかります。
平安末期には、かつての平安京の天皇御所は、妖怪(怪鳥)鵺のすみかに変わり果てていたということです。
大阪につながる話
大阪港の紋章には、二匹の鵺(ぬえ)が描かれています。
源頼政に退治された鵺の遺体は都中を曳きまわされたあと、京の西の果ての川(桂川?)から丸木舟(うつほ舟)に載せて流され、淀川を下って大坂(澤上江、かすがえ)に流れ着いたと伝えられます。
遺体が埋められた所は『鵺塚』として現在も祀られています(大阪市都島区都島本通3丁目)
京都から見て、大阪は川を下って西の果ての果て、うつほ舟が海に出るところですから、昔の都人にとっては『あの世』ということになるのでしょうか。
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この鵺がうつほ舟で流れ着いた話、時代は違いますが、前回・神明神社の【余談】で書いた世阿弥の風姿花伝に書かれた秦河勝の話に似ていると思いませんか(以下再掲)
【余談】うつほ舟について【再掲】
謡曲「鵺」の案内板にうつほ舟=丸木舟と書いてありますね。
世阿弥の風姿花伝に『かの河勝、欽明、敏達、用明、崇峻、上宮太子に仕え奉る。此芸をば子孫に伝え、化人跡を留めぬによりて、摂津国難波の浦より うつほ舟 に乗りて、風にまかせて西海に出づ』という一文があります。
文脈的に厩戸皇子(聖徳太子)に仕えた秦河勝(はたのかわかつ)の最後を描いていますが、生きた者が乗るものではない(あの世に向かう、あの世とこの世をさまよう)舟に乗って西の海に出航します。『うつほ舟』の具体的なイメージが湧かなかったのですが、神明神社の案内板では丸木舟と解説されていますね。(虚舟(うつろぶね)とも云われUFO説もあります。笑)