はじめに
江戸時代、銅は日本の重要な輸出品。大坂には全国から粗銅が集められ、銅吹所で精錬し、長崎に回送していました。大阪市内には #銅座跡 #銅吹所跡 などが残されています #大田蜀山人 #大海神社 #尾去沢鉱山(秋田県鹿角市)
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本文
大坂銅座跡
(34.69090022001411, 135.5027750378416)/大阪市中央区今橋3丁目1−11
大阪北浜あたりといえば、証券取引所などがあり、ビジネスの中心街のひとつですが、その一角に、江戸期の 大坂銅座跡 があります。
隣接して緒方洪庵先生の適塾(てきじゅく、大阪大学の前身)も建物が保存されています。
江戸時代、銅は日本の重要な輸出品目でした。
大坂には、日本全国の銅山から荒(粗)銅が集められ、銅吹仲間が精錬加工し、長崎(出島)に回送していたのですが、大坂で、銅の生産-集荷-出荷のマネジメントを行っていた幕府の組織が 銅座 です。
現在は、大阪市立の愛珠幼稚園(明治13年・1880年開園)の建物が建っていますが、この立派な木造建築は、明治34年に建設されたもので、もちろん市内最古です。
幼稚園の向こう隣が適塾です。
住友銅吹所跡
(34.67483700855138, 135.5103269108181)/大阪市中央区島之内1丁目6−7
銅座跡から離れていますが、大阪市内中心部、松屋町筋と長堀通の交差点から近くのところに 住友銅吹所跡。(大阪市内では、南北の通りを「筋」、東西の通りを「通」といいます。)
ここは、銅吹仲間のひとつ、住友家が運営していた銅吹所跡で、炉が残されています。
本記事のキッカケは、津軽の歴史を調べていて見つけた動画。
奈良時代(708年、和銅元年)に発見された尾去沢鉱山(秋田県鹿角市)。金銀銅が採れましたが、江戸の元禄期(盛岡藩の時代)には全国でも最大級の銅鉱山だったそうです。
粗銅を、牛で青森県(陸奥湾)の野辺地(のへじ)の湊に送り、大坂に回送しました。
(34.61416546397563, 135.4935651445607)/大阪市住吉区住吉2丁目9
2019年12月に、住吉大社の境内社、大海神社で出逢ったおじいさんに教えてもらった江戸期の代表的な狂歌師・大田蜀山人(しょくさんじん)の石碑。
記事内で、碑を紹介し「内容がわかり次第追記します」と書いていましたが、忘れていました。汗
本名は大田南畝(なんぽ)。幕府の勘定所のお役人で、大阪銅座に赴任した約一年(1801)間、中国で銅山を「蜀山」と云ったのに因み、ペンネーム・蜀山人で狂歌を発表していました。
追記の件については、リンク先をご覧ください。