ものづくりとことだまの国

縄文・弥生・古墳時代の謎。古神社、遺跡、古地名を辿り忘れられた記憶、隠された暗号を発掘する。脱線も多くご容赦ください

【大阪城】巨石あるところ水運あり。水運あるところ巨石あり【大手口桝形の巨石・考】

はじめに

昨日の京都太秦・蛇塚古墳の続きで #大阪城 #大手口桝形の巨石。歴史に気の多い私ですがムリヤリ繋いでいる訳ではありません(笑)申し上げたいことは #水運のあるところ巨石あり

目次

本文

【昨日の記事。京都太秦・蛇塚古墳。巨石は京北から水運で運ばれた】

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大阪城 大手門

桜が満開の4月初旬、早朝から大阪城を散歩。たいていは大手門のところから今日はどこを歩こうかと考えます。

大阪城 案内地図(現在地のところが大手門)

大手門とはお城の正面玄関。玄関に向かってズンズン歩いてゆきます。

大阪城 大手門

大阪城 大手門と桝形

大手口桝形の巨石

案内①)桝形とは城の主要な出入口に設けられた四角い区画のことで、敵の侵入を食い止める役割を果たした。築城技術の進歩にともなって強固な石垣造りのものがあらわれ、大阪城の大手口桝形では城の威容を誇示する巨石が数多く使われている。

大阪城大手門の桝形

案内②)正面の大手見附石(おおてみつけいし)は表面積が約29畳敷(47.98㎡)で城内第4位、左の二番石は約23畳敷(37.90㎡)で第5位、右の三番石は約22畳敷(35.82㎡)で第8位。

大手口桝形の巨石 中央が大手見附石、左が二番石、右が三番石

案内③)いずれも 採石地は瀬戸内海の小豆島 と推定されている。現存する遺構は徳川幕府再築工事(1620年から約10年間)のもので、石垣は将軍の命令を受けた諸大名が分担して築いた。この箇所は当初、肥後熊本藩主加藤忠弘(かとうただひろ)が築き、後に筑後久留米藩有馬豊氏(ありまとようじ)が改築した。

左)大手見附石 右)三番石

先月、ブラタモリ・小豆島の回が再放送されていましたが、採石場に諸藩の目印が残されており、小豆島で採った石を船(イカダ?)に乗せて瀬戸内海から大坂の天保山(港)まで運び、さらに安治川→堂島川土佐堀川中之島)→京橋と繋がる水運を利用して、大坂城までほぼ直送しました。

大阪城に立派なお濠がある理由のひとつです。城としての防御が第一義でしょうが、水運を重視していたことも事実です。

信長公の謎

基本的に水運で巨石を運ぶやり方や発想は、はるか昔(弥生時代。確実なところでは古墳時代)から行われていたことで、江戸時代に始まったことではありません。

大阪城大手口桝形

中世(戦国時代)には、現代よりも古代史の真実を知っている人が多く、秀吉公はそれに倣って水利・水運を重視したかも知れません。もちろん徳川幕府もそのような歴史をよく理解していたことでしょう。

大阪城大手口桝形から

水運こそが、秀吉公が大坂城を築いた、大きな、いや、最大の理由の可能性が高く、ただ、それ以前に信長公が石山合戦終結させた(大阪城域に盤踞していた石山本願寺衆を退去させた)直後、なぜここに城を築かなかったのか、謎です。

石山本願寺攻略に手を焼いたからこそ、寺内町の発展ぶりをよく知る信長公に、城づくりの考えがなかったはずがありません。琵琶湖畔の安土城の後、いずれ大坂にも城を築こうと考えていたのか。。。京都が先と考えていたのか。。。

そんな時間の流れの中で、本能寺の変が起こってしまいます。

大阪城大手口桝形から桜の景色

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