はじめに
日本の古神道は #稲作弥生時代 が起源でしょうか。#弁天信仰 の由緒を伝える #京舞 #竹生島 は #水と太陽の祭祀 の聖地の「古くて忘れられた繋がり」を暗示しています #石清水八幡宮 #四天王寺
目次
本文
今年になって石清水八幡宮を参拝し、当ブログで紹介するきっかけになったのが、京舞の竹生島(ちくぶじま)。
大阪の四天王寺を発ち、石清水八幡宮、志賀の寺を経て、竹生島に参るという 淀川を遡る弁天様探訪紀。
京舞は、男性が演じる能(謡曲)の女性版ともいうべき芸術で、(現代ではほとんど忘れられた)日本の古い神々への信仰や由緒を演じる幽玄世界をあらわした演目があり、竹生島はその代表作ともいえます。
四天王寺 水の祭祀・太陽祭祀のこん跡
大阪四天王寺境内には、弁天様の亀遊嶋弁天堂が「下の池」と云われる弁天池に鎮座します。
「中の池」は亀の池(石舞台)、「上の池」は鏡池(丸池)のことで、三池は(中心伽藍にあわせるように)東西に並びます。
四天王寺の「前」には、三池をつなぐ西から東への水の流れ(小川あるいは地下水脈)の方位に沿って(3つの)祭祀場があったと妄想しています。
聖徳太子は、四天王寺の創建にあたって、この 古神道が重視する方位(東西)を意識して・・・つまり、春分・秋分の日、西の石鳥居のど真ん中に太陽が沈む方位を基準として、仏教伽藍(南北)を配置 したと推理されます。
本当は、春分・秋分の日の出・日の入は真東・真西の方角ですが、それは地平線(水平線)基準であり、古代の現場では、高い山や丘陵などが目印(見上げる仰角が基準)になるため、結果として 西に3度ぐらい傾く ということになったのでしょう。
石清水八幡宮 水の祭祀・太陽祭祀のこん跡
このシリーズ(石清水八幡宮)の前回、男山の東には、現在御本殿域となっているかつての山上から 石清水 の流れがあり、それに沿って、水分社-伊勢神宮遥拝所-石清水社(岩清水井)-大扉稲荷社-相槌神社(山の井の霊泉)が並んでいることを紹介しました。
これらの社(遥拝所を含む)は、石清水の流れとともに、間違いなく日の出の方向を意識しています。
私はそれを(岩清水八幡宮の「前」)水の祭祀と太陽祭祀のこん跡 と書きましたが、その理由は。
京舞・竹生島に導かれて見つけた石清水八幡宮・御本殿域の西に約3度傾いた方位。
明らかに春分(稲作の始まり)・秋分(稲作の収穫)の日の出・日の入を意識した古神道の祭祀場が、石清水八幡宮の創建*1以前より、ここにあったことを窺わせるこん跡です。(続きます)