はじめに
墳丘長70メートル級。#垂箕山古墳(片平大塚山古墳)は #太秦 の代表的な #前方後円墳 のひとつ。宮内庁は桓武天皇の第十二皇子・仲野親王の陵墓と治定していますが、時代的にも考えにくい話です
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本文
(35.01668394585313, 135.6997377217244)/京都市右京区太秦垂箕山町/嵐電(京福電鉄嵐山線)帷子ノ辻駅から徒歩3分/住宅地のため駐車場はありません
先日紹介した蛇塚古墳(京都市右京区太秦面影町)と同じツアーで見学した 垂箕山古墳(片平大塚山古墳・仲野親王高畠墓)。
名前がいろいろあるのは、太秦(うずまさ)エリアの代表的な前方後円墳のひとつなのですが、宮内庁治定が考古学知見と矛盾していることもあり、当墳墓について、複数の説があることを物語っています。(以下、垂箕山古墳(たるみやまこふん)で紹介します)
宮内庁管轄で墳丘に立ち入ることはできませんが、(まいまい京都)特別ツアーの今回は、前方後円墳の外周に入ってぐるり一周することができました。
なお宮内庁がその墓と治定する仲野親王は、平安京を創都した桓武天皇(第50代)の第12皇子。
古くから『天王の森?』と云われていた墳墓は、もともと文徳天皇(第55代)と考えられていたそうですが、明治期に仲野親王墓とされて以降、宮内庁管轄になっているとのこと。
垂箕山古墳(たるみやまこふん)をぐるり一周
指さしのところから墓域に入り、外周を、反時計回りに一周しました。
ガイドの加納敬二さんは、京都市考古資料館に35年勤めた考古学者で、平安京跡や鳥羽離宮跡など、数々の発掘調査や研究に従事した方(まいまい京都案内より)。
『前方後円墳は、前方部が儀式の場。後円部が高いものは古い時代で、前方部と水平になるのは新しい時代の様式。前方部と後円部の比率が古墳時代前期*1の箸墓古墳と形態的に酷似している(纏向型)』
『 ゆえに、京都で最古の前方後円墳と考えられる が、宮内庁管轄なので調査できない』と加納さん。
3世期後半~4世紀の前期古墳なら、平安時代の仲野親王の墓というのはあり得ません。
また、飛鳥時代(646)の 「薄葬令以降に造られた前方後円墳」ということになり、この点からも、あり得ない話。
加納さんによると『(もしかしたら)仲野親王は、もともとここにあった墳墓に追葬されたのかも』というお話でした
では、本当の被葬者は誰か?
お話を聞いているうちに、加納さんは古墳や史跡の考察には 方位が重要 と考えておられる方だとわかりました。
その観点から、ひとつ面白いことを、サラッと。
『(垂箕山古墳は)北西の阿刀神社の方を向いている』
・・・で、昨日、その阿刀神社を紹介した次第。
京都に、 安曇と物部の血脈と考えられる阿刀(あと) の名の付く神社が鎮座していたこと自体驚き。
さらに、この一帯は はじめに賀茂(鴨)氏、後に、渡来の秦氏が繁栄した太秦(うずまさ) ですからね。
たいへん重要なヒントをいただき、古代妄想全開😁
石室の正確な方位がわからないため、前方部と後円部の中心らしきところを結ぶ線を、阿刀神社まで引いてみました。
格式の高い 式内社 の阿刀神社は、かつてもっと大きな御神域の社であったと考えてもよいかも知れません。
しばらく太秦(うずまさ)に通い、そのあたりも考えて(妄想して)みたいと思います。
本記事の参考リンク
【参考】雪野山古墳(記事中に主要な前期古墳地図)
*1:3世紀後半~4世紀。銅鏡・鉄剣・勾玉が副葬品。円筒埴輪やつぼ型埴輪。形象埴輪は出土しない。竪穴式石室