はじめに
明治・大正期まで #京都太秦 一帯は関西屈指の古墳群だった模様。戦後の高度経済成長期の市街化も相まって今では数多くの古墳が姿を消しました。#天塚古墳 が住宅街の中に残されているのは希少例といえます #清水山古墳 #千石荘公園
目次
本文
残された天塚古墳
6世紀後半(古墳時代後期)、横穴式石室が二つの未発掘古墳ですが、円筒埴輪の他、多くの副葬品(Wiki参照)が出土していることなどから、当時、太秦を拠点とした秦氏(はたうじ)首長クラスの前方後円墳と考えられます。
現在は住宅地の中に埋もれていますが、
今から約60年前の昭和30年代、二つの前方後円墳が天塚古墳と清水山古墳が田畑の中に、仲良く並んでいたようです。
消えた清水山古墳/大岩が転がっている千石荘公園
残念ながら、清水山古墳の方は完全に消え、今は千石荘公園近くの駐車場入口に、石碑が建てられているだけです。
天塚古墳と同じ横穴式石室の前方後円墳で、明治末期に、後円部の上部で円筒埴輪の破片が採集されたそうです。
Wikiや、上の図絵にも描かれていますが、天塚古墳の北西に陪塚(ばいづか)と推定される円墳があったようですが、私有地の中に埋没しており、現地ではそれらしき姿を確認することはできませんでした。
清水山古墳の至近に位置する千石荘公園の案内銘板は、他の公園では見られないような大岩に貼りつけられています。
もしかして、これは古墳の石室の石?
公園には大正十五年九月に建てられた『瑞典皇太子同妃殿下千石船御台覧』と刻まれた記念碑がありました。
調べてみると『瑞典』はスウェーデンのことで、考古学者でもあった同国の皇太子と妃殿下が、天塚古墳を見学した際に、ここに立ち寄られたことを記念して建てられた碑ということです。
公園内には、似つかわしくない、子供が乗って遊べるほどの大岩がところどころに転がっていました。
、、、怪しいですねぇ。笑
公園になる前は、地元の実業家(篠田幸二郎)の庭園だったそうですが、さて、これらの大岩をどこから運んできたのか、、、
もともとここにあったものだとしたら、、、今では詳しく知る由もありませんが、石室の大岩を庭園に再利用したのかも知れません。
太秦の失われた古墳群
天塚古墳から西北に徒歩5分のところ【緯度経度情報(35.009741639179765, 135.7076028447787)(太秦松本町18)】に墓地。(カッコを除き数値をコピペ→グーグルで検索できます)
市街地の中にこつ然と現れる墓地で、ここも古墳跡とのこと(太秦古墳巡りツアーガイドの先生談)
太秦には、所在は不明も含めて、他に、組石塚(太秦組石町)、千首部塚(ちこうべづか、太秦井戸ケ尻町)、和泉式部塚(太秦和泉式部町)、安養塚、寶鏡塚、狐塚などの古墳があったようですが、戦前までにほぼ失われたようです。